山中城跡
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2018/5/11(14:31,14:34)
「元西櫓」と「二ノ丸橋」から「宗閑寺」へと下りる道。
平成30年(2018)の5月、「山中城跡」を再訪。
本ページでは、前回工事中で歩くことのできなかった「二ノ丸橋」から
「田尻の池」と「箱井戸」の間に下る道と「宗閑寺」を紹介する。
「二ノ丸橋」は、左の写真の左端に写る。この橋の「二ノ丸(北条丸)」側をスタート。
右の写真、「田尻の池」と「箱井戸」の間に下る道を歩く。
2018/5/11(14:35)
門の先に池。
左右に2本の柱が立つ門を抜ければ、
左に「箱井戸」、右には「田尻の池」がある。
2018/5/11(14:35)
「箱井戸」。
案内板には、「箱井戸と田尻の池は、土塁により
分離され、排水溝によって繋がっていた」とある。
写真は、門を抜けた辺りにて撮影。
写真をクリックすると「箱井戸跡」の
案内板(1,000x650)が表示されます。
2018/5/11(14:37)
「箱井戸」と「田尻の池」の中間地点。
「二ノ丸橋」からの坂を下りきったところである。
写真左に写る池が「田尻の池」。
2018/5/11(14:38)
「箱井戸」から「宗閑寺」へと向かう。
写真に写るのが、「箱井戸跡」の案内板で、
その右横には、「宗閑寺」を示す標識が立つ。
2018/5/11(14:41)
「山中公民館」。
2018/5/11(14:41)
山中城「三ノ丸跡」。
「山中公民館」と「宗閑寺」は、「三ノ丸」の
跡地に建つ。
2018/5/11(14:42)
「宗閑寺」。
正式名は、東月山普光院「宗閑寺(浄土宗)」で、
山中城守備軍の副将「間宮康俊」の娘「お久」が
亡き父を弔うため、「徳川家康」に頼んで創建。
境内には、山中城落城の際に亡くなった
武将達の墓が敵味方の区別なく並ぶ。
2018/5/11(14:42)
「宗閑寺」の境内。
武将達の墓は、写真中央左に写る石段を
上がったところにある。
写真をクリックすると「宗閑寺と武将の墓」の
案内板(900x600)が表示されます。
2018/5/11(14:43)
「武将達の墓」から少し離れた所に並ぶ墓。
「無縫塔(卵塔)」が立つことから、
「宗閑寺」歴代住職の墓(卵塔場)であろう。
2018/5/11(14:44)
「武将達の墓」。
写真左が、北条軍諸将の墓。
右に、豊臣軍「一柳伊豆守直末」の墓。
写真をクリックすると拡大写真(600x450)が
表示されます。
2018/5/11(14:44)
上州箕輪城主「多米出羽守平長定」達の墓。
2018/5/11(14:50)
「武将達の墓」。
写真左が、「北条軍諸将」の墓。
右に白く写る石塔が、豊臣軍「一柳伊豆守直末」の
墓で、昭和に入り一柳家の子孫が立直したという。
「一柳直末」の墓の左手前に立つの石塔は、
「一柳直末」の事蹟を刻む石碑。
写真をクリックすると拡大写真(600x450)が
表示されます。
2018/5/11(14:45)
「北条軍諸将」の墓。
写真中央に並ぶ三基の五輪塔が、豊前守康俊
(間宮康俊)兄弟とその一族。
その右に立つ石塔が、山中城主「松田右兵衛太夫
(松田康長)」の墓。
写真をクリックすると拡大写真(600x450)が
表示されます。
2018/5/11(14:52)
「宗閑寺」の参道。
参道右手に立つ「山中城趾記念之碑」は、
関東大震災により荒れ果てた「宗閑寺」を、
昭和に入り再興した、「一柳家」の子孫が
建立したという。
2018/5/11(14:54)
「芝切地蔵」。
「芝切地蔵」は、「宗閑寺」と国道1号線
(旧道)の間にある。
案内板に書かれる「小麦まんじゅう」は、
7月19日前後の日曜日に行われる
「睡蓮祭り」で販売されていたというが、今では、
地元住民の行事となり、「小麦まんじゅう」の
販売は行われなくなったという。
写真をクリックすると「芝切地蔵」の
案内板(800x650)が表示されます。
2018/5/11(14:56)
国道1号線(旧道)に出る。

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