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2010/5/28(11:41) 「法明坊(お水屋)40丁目」。 ここには、「日朗上人お手掘の井戸」がある。 |
2010/5/28(11:41) 「日朗上人お手掘の井戸」。 「日朗上人」が、ここで「岩清水」を汲み、 喉の渇きを覚えられたご様子の「日蓮大聖人」 に捧げたという。 |
2010/5/28(12:06) 「墓石群」。 31丁目付近の登山道沿いにある。 |
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2010/5/28(12:16) 「大光坊(相輪塔)25丁目付近」。 「大光坊」は、東コースのほぼ中間点にある。 「相輪塔」は、天明元年(1781)日蓮聖人 五百遠忌報恩記念に際し、天下泰平を祈願して 三万部のお経を読誦してこの地に建てられたとの こと。この他にも、「日光」と「比叡山」と、 日本に三ヶ所建てられたとある。 |
2010/5/28(12:17) 「大光坊(三光堂)」。 寛文5年(1665)甲府宰相徳川重郷が、子孫 繁栄の祈願所として建立。三光天子を奉る。 三光天子とは、大日天子、大月天子、大明星天子 の総称。太陽、月、星を神格化した名称で、天か ら光をもって我々を守り、天界に属すので天子と 呼ばれるとのこと。 |
2010/5/28(12:17) 「大光坊(釈尊像)」。 延宝5年(1677)京極高勝郷の寄進によって 造立。 このお釈迦様は、霊鷲山において、百日の御修行 をされておられるお姿とのこと。 |
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2010/5/28(12:18) 「大光坊(大黒堂)」。 寛文二年(1662)建立。 ここに祀る大黒天は、日蓮聖人の御自作と伝え られている。 なお、この先は自動車も入れる舗装された道に 変わるが、一般客の自動車は進入禁止である。 |
2010/5/28(12:37) 「太田道灌の墓(15丁目付近)」。 太田道灌の墓が、複数あることは知られている が、この墓もその中の一つであろう。 墓入口の石には「太田家」と刻まれていること から、慰霊碑/記念碑のようなものではなく、 「太田道灌」直系血族に関係する墓と思われる。 なお、周辺には「各戦国武将」の墓もあると いわれ、見るからに由緒ありそうな墓所が多く 見られた。 |
2010/5/28(12:40) 「丈六堂(15丁目付近)」。 「日蓮聖人」が「錦の森」と命名されたと伝えら れる「丈六堂」は、寛永20年(1643)、 本山の境内に釈迦堂を建立。その後、寛文4年 (1664)、現在地に遷座。 堂内には、「丈六の釈迦如来立像」が安置されて いる。 |
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2010/5/28(12:42) 「丈六の釈迦如来立像」。 金色に輝く「釈迦如来立像」は、像高5m58 ㎝。蓮華座上に立っている。 信仰に篤かった「養珠院殿妙紹日心尊尼(お万の 方)」が願主となって奉納されたという。 |
2010/5/28(12:46) 「墓石群(15丁目付近)」。 「身延山の丈六堂」といえば「尼僧さん」といわ れる。尼僧法団は、昭和26年身延山中の「無縁 墓」3,600基を整備した浄行を縁に、「丈六 堂」の管理を委託されたという(その後、「丈六 堂」の管理は、「久遠寺」に戻されたと聞く)。 確認はできなかったが、写真は、この「無縁墓」 を集めたものであろう。無数の「墓石」が重なり 合うように並べられた様は、今までに見たことの ないものであった。 |
2010/5/28(12:52) 「不明(13丁目付近)」。 近くには、「日莚上人」に関する説明板が あった。 |
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2010/5/28(12:54) 「瘡守稲荷大明神(12~11丁目付近)」 。 「瘡」とは、皮膚病の総称。皮膚病にご利益が あるのであろう。 |
2010/5/28(13:03) 「十如坊(鬼子母神堂)10丁目付近」。 |
2010/5/28(13:10) 「本地堂(7丁目付近)」。 この先、坂を下れば「久遠寺本堂裏」である。 なお、「久遠寺本堂裏」は、「6丁目」であり、 登山道の始点(1丁目)は、「三門」である。 「久遠寺」から「三門」までの間は、「久遠寺 本堂周辺」のページで紹介する。 |