首里城
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2015/4/10(9:47,9:48)
総合案内所付近から見る「守礼門」と記念撮影の「写真屋さん」。
「首里城」は、那覇市首里にあり、国際通りから東に約3km。車で、15分~25分程の所にある。
14世紀頃の沖縄は、「三山鼎立(ていりつ)」の時代といわれ、沖縄北部を「北山(ほくざん)」、
中部を「中山(ちゅうざん)」、南部を「南山(なんざん)」という三大勢力により支配されていた。
15世紀に入ると、「尚巴志(しょうはし)」が三山を統一。琉球王国が誕生する。
以来、最後の国王「尚泰(しょうたい)」が、「首里城」を明治政府に明け渡すまでの約500年にわたり、
首里城は、王府の司令塔として、王とその家族等が住み、華麗な王朝文化に彩られた空間であったという。
昭和20年(1945)の沖縄戦でアメリカ軍の砲撃を受け「首里城」は焼失。戦後は、跡地に琉球大学が
建設されたが、平成4年(1992)、沖縄の本土復帰20周年を記念し、国営公園として復元されている。
「首里城」の駐車場は、「首里杜館」の地下にあり、駐車場から地上に出たところに「総合案内所」があった。
つまり、左の写真は駐車場から地上に出たところで撮影したもので、写真中央に「守礼門」が写る。
また、「守礼門」の前では、旅行の思い出にと、琉装(紅型の着物)姿の自分を、写真に収めることができ、
右の写真は、その「写真屋さん」が客待ちをしている様子である。
左の写真をクリックすると「首里城公園総合案内」が表示されます。
この案内図は、1,500x697ピクセルあります。
案内図の文字を読みたいときには、表示された画像をクリックし、スクロールバーをご利用下さい。
また、この案内図は、「広福門」近くの案内板を撮影したものであるが、建物や場所の名前(文字)は、
撮影した写真に上書き(編集)しています。
2015/4/10(9:48)
「守礼門」。
「守礼門(しゅれいもん)」は、1527~1555年、
第二尚氏4代目「尚清王(しょうせいおう)」の時代に
創建されたといわれ、扁額に書かれる「守禮之邦」とは、
「琉球は礼節を重んずる国である」という意味だという。
写真をクリックすると近寄って撮る「守礼門」が
表示(600x450)されます。
2015/4/10(9:54)
「園比屋武御嶽石門」。
「園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)」は、
国王が外出するときに安全を祈願した「拝所」であり、
人が通るための門ではなく、神への「礼拝の門」である。
なお、「首里城跡」は、「琉球王国のグスク及び
関連遺産群」として、ユネスコの世界遺産リストに
登録され、この「園比屋武御嶽石門」は、その中の
一つに含まれるが、復元された「首里城」の建物や
城壁等は、世界遺産には指定されていない。
写真をクリックすると拡大写真(600x450)が
表示されます。
2015/4/10(9:54)
写真右の坂を歩き「歓会門」に向かう。
直進し、坂を下ると、「円覚寺」や「円鑑池」がある。
2015/4/10(9:56)
「歓会門」。
首里城城郭に入る第一の正門となる「歓会門
(かんかいもん)」は、アーチ状の城門の上に
木造の櫓が載る。
「歓会門」の名前は、「首里城」に招かれた中国皇帝の
使者「冊封使(さっぽうし)」等を歓迎するという意味で、
付けられたという。
写真をクリックすると拡大写真(600x450)が
表示されます。

2015/4/10(9:59)
「瑞泉門」。
「瑞泉(ずいせん)」とは、「立派な、めでたい泉」という
意味であり、門の手前右側には、「龍樋」と呼ばれる
湧水がある。
「龍樋」の周辺には、「冊封使」が残した「冊封七碑」と
呼ばれる七つの石碑が立ち、上の写真にも、
そのいくつかの石碑が写る。
写真をクリックすると近寄って撮る「瑞泉門」が
表示(600x450)されます。
2015/4/10(10:01)
「龍樋」。
龍の口から水が湧き出すことから「龍樋(りゅうひ)」と
呼ばれ、湧き出る水は、王宮の飲料水として使われた
という。
「龍」の彫刻は、約500年前の大永3年(1523)年に
中国からもたらされたという。
写真をクリックすると近寄って撮る「龍樋」が
表示(600x450)されます。
2015/4/10(10:03)
「漏刻門」。
「漏刻(ろうこく)」とは、中国語で「水時計」の意味で、
この門の上に置いた水槽から水が漏れる量で時を計り、
指定の時になると係の役人が太鼓を叩く、その太鼓の
音を聞いた別の役人が「大鐘」を打ち鳴らし、城内や
城外に時を知らせたという。
また、別名「かご居せ御門」とも呼ばれ、「駕籠」に乗り
登城した、身分の高い役人たちも、ここで「駕籠」から
下りたという。
2015/4/10(10:04)
「広福門」。
「広福(こうふく)」とは、「福を行き渡らせる」という
意味である。
建物が門としての機能をもっており、王府時代には、
この建物に、神社仏閣を管理する「寺社座(じしゃざ)」と、
士族の財産争い等を調停する「大与座(おおくみざ)」
という役所が置かれていたが、現在は、券売所等に
利用されている。
写真をクリックすると拡大写真(600x450)が
表示されます。
2015/4/10(10:06)
「供屋」。
「供屋(ともや)」は、古絵図などの資料に基づき
復元したものだが、往時の使われ方は、
はっきりしていないという。
現在は、「正殿」にあったという「万国津梁(ばんこく
しんりょう)の鐘」のレプリカ(本物は、沖縄県立
博物館に収蔵)が掛けられている。
写真をクリックすると「万国津梁の鐘(レプリカ)」の
写真(450x600)が表示されます。
2015/4/10(10:08)
「下之御庭」側から見る「広福門」。
「下之御庭」は、「広福門」を潜り抜けたところにあり、
この広場までが無料区域である。
2015/4/10(10:09)
「下之御庭」。
「下之御庭(しちゃぬうなー)」は、「正殿」に入る前の広場で、儀式の控え場として使われたという。
写真、中央左の門は「広福門」、右の門が「正殿」に入る「奉神門」。「奉神門」の右手前には「首里森御嶽」が写る。
写真をクリックすると「下之御庭」周辺の案内図(800x600)が表示されます。
なお、この画像の建物や場所の名前は、撮影した写真に上書き(編集)しています。
2015/4/10(10:10)
「首里森御嶽」。
「首里森御嶽(すいむいうたき)」は、神が造られた
という聖地(拝所)であり、城内には「十嶽(とたけ)」と
呼ばれる10ヶ所の「御嶽(拝所)」があったという。
写真をクリックすると拡大写真(600x450)が
表示されます。
2015/4/10(10:11)
「奉神門」。
「奉神門(ほうしんもん)」は、「首里城」に入る最後の門
であり、この先が有料区域となる。
門の前では、休館日を除く毎日、「御開門」の儀式が
行われ、「銅鑼(どら)」の合図と「御開門(うけーじょー)」
の発声で開門され、開門後約15分の間、「御庭」には、
琉球古典音楽や「御座楽(BGM)」が流れるという。
写真をクリックすると拡大写真(600x450)が
表示されます。
2015/4/10(10:14)
「天水甕」。
発掘調査等で、「下之御庭」には、少なくとも4基の
大きな「甕(かめ)」が確認されており、古文書には
「天水甕(てんすいがめ)」と記されていることから、
消防用の水を貯めていたのではないかと推測される
という。
2015/4/10(10:17)
「御庭」。
「正殿」前の広場が「御庭(うなー)」である。
周りを、「北殿(左)」、「正殿(正面)」、「南殿(右)」に囲まれ、「首里城」の中心部として、年間を通じて様々な儀式が行われたという。
中央の道は、「浮道(うきみち)」と呼ばれ、国王や「冊封使」等の限られた人だけが通ることを許されたという。
写真をクリックすると「御庭」を取り囲む建物(有料区域)の案内図(600x450)が表示されます。
なお、この画像の建物や場所の名前は、撮影した写真に上書き(編集)しています。
2015/4/10(10:18)
首里城「正殿」。
琉球王国最大の木造建造物で、全国百の浦々を
支配する象徴として「百浦添御殿(ももうらそえうどぅん)」
とも呼ばれていたという。
壁等の彩色塗装には、「桐油(とうゆ)」が塗られ、
下地の一部には、「漆(うるし)」が塗られている。
写真をクリックすると拡大写真(600x450)が
表示されます。
2015/4/10(10:18)
「番所」。
「番所(ばんどころ)」は、「首里城」へ登城してきた
人々の取次を行っていたというが、現在も「正殿」等、
建物内部見学の入口として使われている。
この先、「正殿」までは、写真撮影が禁止されている
ため、建物内部を紹介することはできないが、
「番所」と「南殿」は、いずれも資料展示スペースとして
利用され、「正殿」では、「御差床(うさすか)」と呼ばれる
国王が座る「王座」や「大庫理(うふぐい)」と呼ばれる
王妃や身分の高い女官たちが使用した空間。
そして、絢爛豪華な装飾等を見ることができる。
2015/4/10(10:44)
「正殿」内部の見学を終え「御庭」に出る。
正面の石段下の両脇には、「大龍柱(だいりゅうちゅう)」
が立つ。また、石段両脇の手すりの上にも、「小龍柱
(しょうりゅうちゅう)」が立つ。
龍は国王の象徴であり、「正殿」内外の柱や梁等にも、
龍の彫刻や絵が多数施されている。
写真をクリックすると左右に立つ「大龍柱」の写真を
編集した画像(600x450)が表示されます。
表示される画像では、建物に向かって左側が
口を閉じた「吽形(うんぎょう)」、右側が口を開けた
「阿形(あぎょう)」であることが分かる。
2015/4/10(10:47)
「正殿」前から見る「御庭」。
写真左に「南殿」と「番所」。中央に「奉神門」。右に「北殿」が建つ。
2015/4/10(10:47)
「南殿(左)」と「番所(右)」。
どちらの建物も塗装を施したという記録がないため、
着色をしていないという。
建物内には、王国時代に製作された漆器、絵画等の
美術工芸品等が展示され、特別展示室では企画展も
開催されている。
2015/4/10(10:47)
「北殿」。
「北殿(ほくでん)」は、往時「議政殿(ぎせいでん)」とも
呼ばれ、王府の行政施設として機能したという。
平成12年(2000)には、沖縄で開催された主要国首脳
会議(沖縄サミット)の晩餐会で利用された。
現在は、首里王府の位置や仕組み、「冊封式典
(さっぽうしきてん)」等についてパネルや映像で
解説しており、売店や休憩コーナーもある。
なお、「北殿」の館内は、撮影が許可されている。
2015/4/10(10:48)
「朝拝御規式模型」。
この模型は、「北殿」の館内に展示されている。
「朝拝御規式(ちょうはいおきしき)」は、元旦に首里城で
執り行われた正月儀式で、国王や役人達が「御庭」に
整列し、中国風の厳粛で壮大な儀式が執り行われた
という。
2015/4/10(10:49)
「御涼傘」。
「御涼傘(うりゃんさん)」は、絹張りの「大傘」で、
国王が外出する際や行祭事などの行列で、
荘厳さを演出するために使われたという。
2015/4/10(10:50)
「冊封儀式模型」。
「冊封儀式(さっぽうぎしき)」は、中国皇帝の名のもと
執り行われる国王の即位式であり、琉球王国最大の
儀式であったという。
現在でも、10月下旬~11月初旬に行われる
「首里城祭」では、「冊封儀式」や「冊封使行列」の
一部が再現されている。
写真をクリックすると近寄って撮る「冊封儀式模型」が
表示(600x450)されます。
2015/4/10(10:51)
「首里城Q&A」。
質問を読み板をめくると、板の下に書かれた回答を
見ることができる。
この後、売店などを通り、「北殿」を出る。
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