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2015/4/9(13:13) 「平和の広場」南側の丘(見晴台)から見る景色。 写真左に「平和の礎」、右には太平洋が写る。 |
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2015/4/9(13:12) 「平和の広場」南側の丘(見晴台)から見る 「沖縄県平和記念資料館」。 写真をクリックすると拡大写真(600x450)が 表示されます。 |
2015/4/9(13:12) 「平和の広場」南側の丘(見晴台)から見る「太平洋」。 写真をクリックすると拡大写真(600x450)が 表示されます。 |
2015/4/9(13:18) 「摩文仁の丘」に向かう。 |
2015/4/9(13:21) 「みちのくの塔(青森県)」。 「みちのくの塔(青森県)」は、「摩文仁の丘」の東端に 位置し、沖縄戦戦没者544柱と南方諸地域戦没者 19,303柱の合せて、19,847柱を合祀する。 |
2015/4/9(13:24) 「霊域園路」。 「霊域園路」の周囲には、32府県の慰霊塔(碑)を含め 50基の慰霊塔(碑)が立つ。 なお、北海道や東京など14都道府県の慰霊塔(碑)は、 県内の他地域に立っている。 |
2015/4/9(13:25) 「近江の塔(滋賀県)」。 南方諸地域戦没者を含む、1,697柱を合祀する。 |
2015/4/9(13:29) 「立山の塔(富山県)」。 沖縄戦戦没者876柱と南方諸地域戦没者 13,996柱の合せて、14,872柱を合祀する。 |
2015/4/9(13:31) 「国立沖縄戦没者墓苑」。 「国立沖縄戦没者墓苑」は、「霊域」のほぼ中央南側に 位置し、沖縄住民の手により収骨された戦没者の 遺骨を日本政府の手により整理統合したもので、 納骨堂には約18万余柱の遺骨が納められている。 写真をクリックすると「沖縄戦没者墓園」の 案内板(800x600)が表示されます。 |
2015/4/9(13:34) 「三重の塔(三重県)」。 沖縄戦戦没者2,600柱、南方諸地域戦没者 31,300柱、その他地域戦没者19,100柱の 合せて53,000柱を合祀する。 |
2015/4/9(13:41) 「火乃国之塔(熊本県)」。 2,900柱を合祀する。 |
2015/4/9(13:44) 「下の展望台」。 「摩文仁の丘」の西側には2つの展望台があり、 この展望台は、「霊域園路」の西端にある。 |
2015/4/9(13:45) 「下の展望台」から見る太平洋。 |
2015/4/9(13:45) 「下の展望台」から見る「上の展望台」。 「上の展望台」は、「霊域」から更に西に「健児の塔」へと 向かう途中にあり、公園内で標高の一番高い所にある。 |
2015/4/9(13:48) 「やすらかに(鹿児島県)」。 沖縄戦戦没者2,582柱を合祀する。 |
2015/4/9(13:49) 「健児の塔」へと歩く。 |
2015/4/9(13:50) 「上の展望台」。 この展望台の下に「第32軍司令部終焉之地」がある。 |
2015/4/9(13:51) 「上の展望台」から見る太平洋。 |
2015/4/9(13:51) 「上の展望台」から見る「下の展望台」。 |
2015/4/9(13:52) 「上の展望台」から「健児の塔」へと続く石段。 「健児の塔」へは、傾斜の急な石段が続く。 写真で、石段の色が濃くなったところを左に入ると、 「第32軍司令部終焉之地」がある。 |
2015/4/9(13:54) 「第32軍司令部終焉之地」。 「摩文仁」を最後の拠点として持久戦を戦っていた 第32軍司令部「牛島満司令官」は、 「爾今(じこん)各部隊は各局地における 生存者中の上級者これを指揮し最後まで敢闘し 悠久の大義に生くべし」 との最後の命令を発し、「長勇参謀長」らとともに、 この壕で自決。これにより、沖縄守備軍の指揮系統は 完全に消滅。組織的な戦闘の終了となった。 |
2015/4/9(13:57) 「平和の像」と初代の「健児の塔」。 沖縄師範学校の生存者や関係者により建立された、 「平和の像」は、向かって右側の少年が「友情」、 中央の少年が「師弟愛」、左の少年が「永遠の平和」を 象徴している。 「平和の像」の右下に立つのは、昭和21年(1946)、 「金城和信氏」により建立された、初代の「健児の塔」。 「平和の像」の裏には、「鉄血勤皇師範隊」の壕が残る。 写真をクリックすると「平和の像」と初代の「健児の塔」を 切り抜いた画像(600x450)が表示されます。 |
2015/4/9(13:58) 「沖縄師範健児の塔」と「平和の像」。 「沖縄師範健児の塔」は、昭和20年(1945)3月末、 沖縄師範学校男子部から動員された教師19名と 学徒(鉄血勤皇隊)226名を含む同窓生290名を祀る。 動員された「鉄血勤皇(てっけつきんのう)隊」は、 徴兵年齢に達しないため、形式上は「志願」で、 親権者の承認が必要であったが、その実態は、 学校が意図的に印鑑を作り、書類を作成したという。 写真をクリックすると「沖縄師範健児之塔」の 写真(450x600)が表示されます。 |
2015/4/9(13:59) 巨岩が寄り添う下の石段を登り「上の展望台」に戻る。 |
2015/4/9(14:06) 「黎明之塔」。 「上の展望台」の近くにあり、第32軍司令官「牛島満 中将」と参謀長「長勇中将」の2柱を合祀する。 |
2015/4/9(14:11) 「下の展望台」から「南園路」に降りる「木道」から撮影。 「沖縄平和記念堂」と「沖縄県平和記念資料館」が 見えている。 |
2015/4/9(14:18) 「平和の丘彫像」。 「南園路」から「多目的広場」を通り、「平和の丘」に戻る。 この「平和の丘彫像」は、平成13年(2001)に完成。 厳粛な式典を見守る「黒御影石製」のアーチは、 「平和のくさび」であり、「平和の丘」のシンボルである。 彫像の中央には、沖縄に見立てた琉球石灰岩の 「要石」を配置したという。 |
2015/4/9(14:18) 「平和の丘」から北の方向を見る。 「平和記念公園」は、広大である。 今回、途中に昼食を挟んではいるが、3時間弱の 散策であった。それでも、公園北側の広場には 行っていないし、「平和記念資料館」の中も見ていない。 沖縄戦では、日本人だけでも、18万8千人強(沖縄県 援護課発表)の戦没者を出し、その内約半数の人が 一般人であり、沖縄県民の5人に一人の命が 奪われたのである。 時間が許するのであれば、戦争の悲惨さや戦争のない 平和の尊さ等を胸に刻みつつ、広い公園内をのんびりと 散策して頂ければと思う。 |