軍艦島
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2013/10/2(8:39)
「長崎港(大波止桟橋)」。
「軍艦島」を巡るツアーは、複数あるが、この日は
「長崎港(大波止桟橋)」を出航する船に乗船。
写真手前に停泊する2隻が、「軍艦島クルーズ」に
使われる船である。
奥に写る帆船は、以前、ハウステンボスで運航され、
現在は、長崎港を約60分で巡る観光船として
再利用されている「観光丸」。
2013/10/2(8:58)
クルーズ船の船首から見る「女神大橋」。
3.5倍ズームにて撮影。
写真の撮影時刻が8時58分となっているが、
船は、9時出航であった。従って、本ページで紹介する
写真を撮影したカメラの内蔵時計は数分遅れていた
ようである。
以降、「軍艦島」に到着するまでの間、船窓から撮る
写真を紹介する。
2013/10/2(8:58)
造船中のコンテナ船。
長崎港の対岸(西側)には、「三菱重工長崎造船所」の
施設が並ぶ。
「軍艦島」について、
「軍艦島」は、長崎港から約19km離れた海上にある南北に約480m、東西に160mの小さな無人島で、島の正式名は「端島(はしま)」だが、外観が軍艦「土佐」に
似ることから一般に「軍艦島」と呼ばれている。
島はその昔、更に小さな岩礁であったが、海底炭鉱の基地として6回に渡り埋め立て、最盛時には5,300名もの人が暮らし、その人口密度は世界一で、
東京都の9倍であったという。
島には、学校、病院、商店、郵便局、理髪店からパチンコ屋、映画館等の娯楽施設。それに神社、寺までが揃い、住民は島から一歩も出ずに生活することができたという。
また、炭鉱生活というと貧しい生活を思い浮かべしまうのだが、電化製品の普及率では、長崎県一を誇り、土を見ることのない生活では、屋上に土を運び、
日本初といわれる「屋上菜園」を作ったり、高波に慣れてしまった人々は、台風の日に屋外に出て「大波見物」をしたりして楽しんだという。
そんな「軍艦島」も、昭和49年(1974)炭鉱の閉山により、島は無人化。炭鉱関連施設の一部は、閉山時に破壊されたが、ほとんどの建物はそのまま残された。
残された建物は、その後の台風等による波涛の力で見るも無残なほどに崩壊。島への立ち入りは長い間禁止されていたが、平成20年(2008)、「九州・山口の近代化
産業遺産群」の一部として、世界遺産暫定リストに追加記載されたこと等もあり、長崎市は「端島への立ち入りの制限に関する条例」を作り、「島の一部に整備された
見学路に限り」上陸、見学ができるようになった。
2013/10/2(8:59)
「三菱重工長崎造船所」本工場。
安政4年(1857)徳川幕府の「長崎鎔鉄所」設立に始まる
というから歴史は古い。
かつては戦艦「武蔵」を建造した船台と30万㌧ドックを
持ち、自動車運搬船、コンテナ船、護衛艦などの建造、
修理を行う他、タービン工場、エレクトロニクス工場等が
あるという。
2013/10/2(9:02)
「女神大橋(愛称:ヴィーナスウイング)」。
長崎県道路公社が管理する一般有料道路「ながさき
女神大橋道路」に架かる斜張橋で、
橋の長さは、全体延長1,289m。斜張橋部880m。
海面からの高さ65m。
2013/10/2(9:05)
「高鉾島」。
長崎港の入口にある無人島で、元和3年(1617)、
一般の領民であるキリシタンが初めて処刑されたのが、
この島であったという。
2013/10/2(9:06)
「神ノ島教会」&「マリア像」。
徳川幕府の禁教令により、キリシタンは、当時、舟で
しか渡れなかった「神ノ島」に隠れ、キリスト教の
信仰を守ったという。
現在の教会堂は、6代目に赴任した「デュラン神父」が
私財を投じ、明治30年(1897)に完成したという。
写真をクリックすると「神ノ島教会」と「マリア像」の
部分を切り抜いた画像(600x450)が表示されます。
ピントが甘くはっきりとしないが、教会の手前にある
岩に立つ白い像が「マリア像」である。
2013/10/2(9:08)
「100万㌧ドッグ」。
「三菱重工長崎造船所」の香焼工場にあり、
長さ1,000mのドックを有効に使い、LNGやLPGの
輸送船、大型タンカーなどを建造する。
また、併設するボイラ工場は、日本最大の規模を持ち、
年間612万KWの生産能力を持つという。
2013/10/2(9:14)
「伊王島大橋」。
「伊王島」は、ホテル、温泉、コテージ、テニスコート等が
揃った、長崎で人気の宿泊、リゾート地で、「長崎港
(大波止)」との間を20分で結ぶ高速船も運航されて
いるが、平成23年(2011)年に開通した「伊王島大橋」に
より長崎半島(野母半島)と陸続きになっている。
「伊王島大橋」は、総延長2.7km、主橋部0.9kmで、
無料の一般道である。
2013/10/2(9:18)
「高島」。
2倍ズームにて撮影。
「高島」は、江戸時代初期に始まる「高島炭鉱」で、
一時は従業員3,000名、年間出炭量も約127万㌧に
達したが、昭和61年(1965)に閉山後は、人口は激減
するものの、平成17年(2005)年国勢調査で722人が、
観光事業やハウス栽培等を営む有人島である。
2013/10/2(9:28)
「軍艦島(左)」と「中ノ島(右)」。
「中ノ島」でも、一時期炭鉱開発が行われるが、
わずか数年で閉山。以降、「軍艦島」に住む住民の
火葬場や墓地として使用されたという。
2013/10/2(9:32)
「軍艦島(端島)」接岸直前に撮る「ドルフィン桟橋」。
「長崎港(大波止桟橋)」から約30分で「軍艦島」に
到着。接岸する桟橋は「ドルフィン桟橋」と呼ばれる。
2013/10/2(9:37)
「軍艦島」に上陸。
先ずは、第1見学広場に向かう。
左に写る煉瓦積の擁壁は「天川の護岸」。
右上、横に長い長方形の構造物は「貯水槽」。
2013/10/2(9:37)
撮影位置は多少ずれるが、左の写真の右方向を撮る。
左上端は「貯水槽」の右端。
右上に、「3号棟(幹部職員用住宅)」。
右下は、「貯炭場跡」。ベルトコンベアーの支柱も写る。
2013/10/2(9:38)
第1見学広場から見る「貯炭場跡」。
採掘された石炭は精選され、運搬船に積み込まれる
までの間、この「貯炭場」に蓄えられたという。
写真は、1.75倍ズームにて撮影。
2013/10/2(9:39)
第1見学広場から見る「第二竪坑櫓跡」。
竪坑は、坑道への作業員の昇降、石炭の荷揚げや
坑内の通気のために垂直に掘られた穴で、地上には
昇降用のケージ(エレベーターの箱)をぶら下げる
鉄骨製の櫓が立っていた。
閉山時には、第二と第四竪坑が稼働していたが、
これらは、閉山後すぐに解体されたという。
2013/10/2(9:40)
「第1見学広場」。
下船した見学者は、この広場に集められ、クループ分け
され、この後は、ガイドの説明を受けながらのグループ
行動となる。
写真に写る人は、全員が同じ船に乗っていた人達で
ある。
2013/10/2(9:42)
「第二竪坑坑口桟橋跡」。
鉱山施設のほとんどは崩壊しているが、「第二竪坑」へ
行くために設けられた桟橋への昇降階段部分が残って
いる。
2013/10/2(9:42)
「総合事務所跡」。
「総合事務所」は、鉱山の中枢であった建物で、
中には、鉱員のための大きな共同浴場なども
あったという。
赤煉瓦の建物は、昭和10年(1935)まで使われていた、
第三竪坑の捲座(ケージを昇降させる巻揚機の施設)で
あったが、第三竪坑の廃坑後資材事務所に転用された
という。
2013/10/2(9:43)
上に「貯水槽」、下に「第二竪坑坑口桟橋跡」。
「貯水槽」の左に立つのは「肥前端島灯台」。
炭鉱操業時には、深夜でも煌々と点っていた明かりも、
閉山により暗闇と化したため、閉山の翌年(1975)に
立てられたという。
写真は、1.75倍ズームにて撮影。

2013/10/2(9:45)
「総合事務所跡」近くに倒れるコンクリート塊。
2.25倍ズームにて撮影。
この波涛の破壊力は、平成23年(2011)の東日本
大震災で倒壊した、岩手県宮古市田老地区の
防潮堤を思い起こさせる。
今、何らかの手を打っておかなければ、近い将来
「軍艦島」が無くなってしまうのではないだろうか。
2013/10/2(9:49)
「天川の護岸」。
この石積みは、石炭と赤土を混ぜた「天川」と呼ばれる
接着剤を使って造られたという。
また、6回に渡る埋め立てにより島の面積を徐々に
広げたため、写真奥に写る近年の護岸よりも内側に
あり、当時、この間には海があったことが分かる。
2013/10/2(9:50)
「海底水道取込口」。
長崎半島から敷いた全長6.5kmの導水管を地上に
引揚げていた穴である。
左に写るケーブルは、「高島」から敷いていた
電力用海底ケーブルの残骸。
2013/10/2(9:51)
「仕上工場」。
「仕上工場」は、機器のメンテナンス等を行う施設で、
1階が作業場、2階には作業員のための食堂や浴場が
あったという。
周りに建っていた「下請住宅」「製缶場」等の建物は、
跡形もなく崩壊している。
2013/10/2(9:53)
「25m海水プール」。
小中学校の前にあったプールが台風で大破したため、
昭和33年(1958)、この場所に25mプールと
幼児用プールを造ったという。
また、島で貴重な水は使わず、海水を使用していた。
2013/10/2(9:53)
「30号棟(手前)」と「31号棟(左奥)」。
30号棟は、大正5年に建てられた鉄筋コンクリート
(以降、RCと略す)造の7階建で、日本最古のRC造り
高層アパートといわれる。
地下には売店もあり、140戸が入居。
31号棟は、RC造の6階建で、51戸が入居。
共同浴場の他、郵便局や理髪店があったという。
写真をクリックすると、2倍ズームで撮る写真が
表示(600x450)されます。
2013/10/2(9:55)
「第3見学広場」
左奥の建物は、30号棟、右の建物は「仕上工場」。
見学通路は、「ドルフィン桟橋」から、この「第3見学広場」
までの、島の南側部分だけである。
この後は、同じ道を「ドルフィン桟橋」に戻る。
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