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2013/11/24(15:59) 「インクライン跡」に造られた階段を下りる。 「インクライン」は、急な斜面に敷いた2本のレールの 上を、2台の「トロッコ」がワイヤーで結ばれる、 交走式(つるべ式)の荷物専用「ケーブルカー」である。 この「インクライン跡」の傾斜に220段の階段が 造られている。 |
2013/11/24(16:02) 「貯鉱庫跡」。 「貯鉱庫」は、「第三通洞」から「坑内電車」にのせて 運ばれてきた銅鉱石を「鉱石」と「岩石」とに選別し、 麓に運ぶため、一時的に保管するための倉庫である。 愛媛県と広島県の間の「しまなみ地方」で産出された 花崗岩で造られた「貯鉱庫」は、その重厚さから 「東洋のマチュピチュ」と呼ばれている。 写真をクリックすると拡大写真(600x450)が 表示されます。 |
2013/11/24(16:03) 「索道基地跡」。 貯鉱庫で選別された「鉱石」を入れた「搬器(バケット)」 をぶら下げて、「端出場」まで運ぶ索道(荷物用ロープ ウェイ)の停車場跡である。 この索道では、「鉱石」だけでなく、日用生活品や 郵便物、新聞等も輸送したという。 |
2013/11/24(16:05) 「索道基地跡(手前)」と「貯鉱庫跡(奥)」。 「貯鉱庫」の中は、上下2段構造になっており、 第三通洞から運ばれた「銅鉱石」は、上の貯鉱庫に 降ろされ、中間にある「選鉱場」で、銅の含有率を、 人の手と目で確認しながら選別。選別された「鉱石」は、 下の貯鉱庫から索道基地へと運ばれたという。 写真をクリックすると拡大写真(600x450)が 表示されます。 |
2013/11/24(16:07) 「索道基地跡」。 「索道」は、全長3,575m。75m間隔でぶら下がる 「搬器(バケット)」を、秒速約2.5mで動かし、 一日、900㌧の「鉱石」を「端出場」まで運んだという。 なお、この索道は、「鉱石」の重量を利用して動くため、 モーターなどの動力は必要とせず、動くスピードは ブレーキで調整していたという。 |
2013/11/24(16:09) 「索道基地跡」から見る「社宅跡」。 建物の骨組みは復元したというが、「かまど跡」や 建物の基礎等が当時の状態で保存されている。 |
2013/11/24(16:09) 「社宅跡」付近で振り返る「索道基地跡」と「貯鉱庫跡」。 「社宅跡」を横目に見ながら「娯楽場跡」に向かう。 |
2013/11/24(16:14,16:15) 「娯楽場跡」と「保育園跡」。 左の写真には、中央少し上に「娯楽場」の前にあった「石橋」が写る。 (下の16時33分の写真では、「東平歴史資料館」にある「娯楽場」のジオラマを紹介しています) 右の写真に写る、小判形の構造物は、園児が遊んだ「プール」であろうか。 最盛期の「東平地区」には、社員・家族を含めて約5,000人が周辺の社宅で生活しており、 病院や学校、郵便局、生協、プール、娯楽場等、町としての施設は一通り整っていたという。 少し先には、「病院跡」等もあるのだが、ここでUターンし、来た道を戻る。 |
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2013/11/24(16:19) 「社宅跡」。 「東平地区」の社宅は、主に職員用の住宅であったため、 部屋数が多かったり、広かったりと贅沢な造りになって いたという。 この場所は、案内図に「採掘集落の復元」と書かれた 場所である。 |
2013/11/24(16:23) 下から見上げる「インクライン跡」。 |
2013/11/24(16:23) 「インクライン下」の休憩舎。 この後、「インクライン跡」の220段の階段を登り 「東平歴史資料館」に向かう。 |
2013/11/24(16:31) 「むかしの東平」。 当時の「東平」の様子が、縮尺1:1000で、 描かれている。 写真をクリックすると「むかしの東平」の 地図が拡大表示されます。 この地図は、2,000x1,000ピクセルあります。 地図の文字を読みたいときには、表示された画像を クリックし、スクロールバーをご利用下さい。 |
2013/11/24(16:33) 「別子銅山全体」のジオラマ。 この写真からは、「東平歴史資料館」の館内の 様子を紹介します。 |
2013/11/24(16:33) 「娯楽場」のジオラマ。 16時14分撮影の写真に写る「石橋」も再現され、 のぼり旗には「市川菊三郎」「片岡松四郎」等と 書かれている。 |
2013/11/24(16:34,16:34) 「学校」のジオラマ。 |
2013/11/24(16:34) 「社宅」のジオラマ。 |
2013/11/24(16:35) 当時、使われた道具が並ぶ。 |
2013/11/24(16:35) 当時、使われた道具が並ぶ。 |
2013/11/24(16:36) 「銅製品」。 |
2013/11/24(16:38) 「仲持の背い子」。 「仲持」とは、別子銅山の開鉱から明治13年(1880)に 「牛車道」が開設されるまでの間、銅山で精錬された 粗銅や山中での生活物資等を運んだ人達のことで、 写真の「背い子」で、男性45kg、女性30kgを背負って 険しい山道を往き来したという。 展示されている「背い子」は、30kgの重さがあり、 女性が背負ったという重さを体験することができる。 |
2013/11/24(16:39) 「館内」の様子。 |
2013/11/24(16:40) 「別子銅山絵巻全景図」。 |
2013/11/24(16:41) 「館内」の様子。 |
2013/11/24(16:43) 「館内」の様子。 |
2013/11/24(16:45,16:46) 「旧保安本部」。 駐車場に隣接する高台にあるレンガ造りの建物は、明治期に「配電所」、大正期は「林業課事務所」、 その後「保安本部」として使われた建物で、木造建物は、閉坑時に全て焼却されたが、レンガ造りの建物は、 そのまま残り、銅板を使ったレリーフ作り体験ができる「マイン工房」として再利用されている。 左の写真に写る階段は、現在通行禁止になっているが、当時はこの下に「坑内電車」のホームがあり、 本部と駅舎を往き来する階段として利用されていたという。 注:「東平ゾーン」は、「東平歴史資料館」を含め、基本的には全てが無料のテーマパークなのだが、 マイン工房の「レリーフ作り体験」は、体験料金(材料費程度)が必要である。 |