萩城下町
(城下町散策編)

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2012/5/13(6:47)
「指月橋」の東側から城下町の方向を見る。
「指月橋」は、萩市街地の西「萩城址入口」に
あり、近くには「萩史料館」「遊覧船のりば」等
がある。
また、萩の町は、現在でも「古地図で歩ける町」
として、江戸時代に形成された町割や街路、武家
屋敷や町家などが多く残る町として知られる。

2012/5/13(6:48)
「天樹院墓所」入口の標識。

2012/5/13(6:51)
「天樹院墓所」入口の門。
案内板には、「萩藩主毛利家墓所(天樹院墓所)」
とあり、毛利輝元の墓所で、「輝元」と「夫人」
および、殉死者「長井治郎左右衛門」の墓石3基
があると書かれている。

2012/5/13(6:51)
「天樹院墓所」入口の門を入る。
2012/5/13(6:52)
「天樹院墓所」前に立つ鳥居。
2012/5/13(6:53)
「天樹院墓所」。
案内板には、墓は花こう岩製の五輪塔形で、
輝元のものは、高さ2.1m。夫人のものは
1.8mとある。
2012/5/13(6:56)
東の方向へと歩く。
2012/5/13(6:59)
「旧毛利家別邸表門」。
元は、「毛利元徳公」が「鎌倉材木座」に建てた
別邸の表門で、桁行10.9m、梁間3.81m、
棟高5.2mとある。
2012/5/13(7:03)
周囲には「萩焼」の店が多い。
2012/5/13(7:11)
「田中大将像」。
元治元年(1864)に萩藩士の三男として生まれ、
昭和2年(1927)、第26代内閣総理大臣となった
「田中義一」の銅像である。
2012/5/13(7:14)
北側の入口から見る「萩博物館」。
「萩まちじゅう博物館」の拠点として、萩の自然
や歴史、民俗、文化などが学べるという。
2012/5/13(7:19)
「北の総門」。
藩政時代に城下から三の丸(堀内地区)に入るため
に設けられた総門を、平成16年(2004)に復元。
三ノ丸の東側に位置するが、他の総門(中の総門、
平安古の総門)からは、北側に位置するため、
「北の総門」と呼ばれるという。
2012/5/13(7:22)
「旧繁沢家長屋門」。
「繁沢家」は、「阿川毛利家(7391石余)」の
分家で、「萩藩寄組(1094石余)」に属し、
給領地を大津郡三隅村(現長門市)と阿武郡
小川村(現萩市)等に持っていたという。
建物は、桁行35.5m、梁間4.9m。
2012/5/13(7:24)
「旧益田家物見矢倉」。
「益田家」は、萩藩の家老で、阿武郡須佐
(現須佐町)に領地を持っていたという。
この矢倉(武器などを入れた倉)は、長さ
約11m、奥行き約5mの平屋建てで、見張りに
使われていたという。
2012/5/13(7:32)
「北の総門」東側にて撮影。
周辺整備に伴い復元された「古井戸」と思われる
が、確認できず。
2012/5/13(7:40)
「菊屋家住宅」。
「菊屋家」は、萩藩の御用達を勤めた旧家で、
建物は、全国でも最古に属する大型の町家として
極めて貴重(主屋は、17世紀中頃、本蔵・金蔵等
は、18~19世紀頃の建築)とある。
2012/5/13(7:40)
「旧久保田家住宅」。
「久保田家」は、呉服商・酒造業を営んでいたと
いう。
建物は、屋根裏に物置や使用人の寝間を設けた
「つし二階」を持つ。
2012/5/13(7:42)
「萩城城下町」の案内図。
案内図には、萩城城下町散策のメインとなる
路地の名前、「田中義一」「高杉晋作」の誕生地
等が書かれている。
写真をクリックすると案内板の地図が拡大表示
されます。
この地図は、1280x960ピクセルあります。
案内板の文字を読みたいときには、表示された
画像をクリックし、スクロールバーを
ご利用下さい。
2012/5/13(7:48)
「田中義一」誕生地。
第26代内閣総理大臣「田中義一」の生誕地。
2012/5/13(7:49)
「菊屋横町」。
藩の豪商「菊屋家」、「高杉晋作」「田中義一」
の誕生地等があり、白い「なまこ壁」の美しい
この路地は「日本の道百選」の一つに選ばれて
いる。
2012/5/13(7:50)
「高杉晋作」誕生地。
29歳で、この世を去った幕末の風雲児といわれ
る「高杉晋作」が生まれ育った家。
敷地内には、晋作ゆかりの品や、東行と号した
句碑、産湯の井戸等があるという。
2012/5/13(7:51)
「晋作広場」。
公園内には、「高杉晋作立志像」が建つ。
2012/5/13(7:52)
「高杉晋作立志像」。
この像は、20歳頃の若々しい「高杉晋作」を
イメージしているという。
2012/5/13(7:59)
「伊勢屋横町」。
この路地には、呉服商「伊勢屋」があったと
いう。
2012/5/13(8:04)
「木戸孝允旧宅」。
維新の三傑と詠われた「木戸孝允」は、
生まれてから江戸に出るまでの約20年間を、
この家で過ごし、中には、「誕生の間」や幼少
時代の手習いの書を表装した掛け軸や写真などが
展示されているという。
2012/5/13(8:05)
「江戸屋横町」。
「木戸孝允」や、蘭方医「青木周弼」の旧宅、
高杉晋作・伊藤博文ゆかりの「円政寺」等が
並び、黒板塀の風情ある路地である。
2012/5/13(8:05)
「旧佐伯丹下家屋敷」。
「佐伯丹下」は、幕末に藩の直目付などの要職を
務めたという。
2012/5/13(8:07)
「青木周弼旧宅」。
第13代藩主「毛利敬親」の侍医を務めた
「青木周弼」が生まれ育った家。
2012/5/13(8:08)
「円政寺」入口。
「円政寺」は、大変見どころの多い寺であり、
この詳細は、「萩城下町(円政寺編)」のページで
紹介していますので、本ページの下にある
ハイパーリンクから、是非ご覧になって下さい。
2012/5/13(8:41)
「萩焼窯元まつり」。
「円政寺」に隣接する駐車場で開催されていた。
2012/5/13(8:56)
「清末用屋敷の大イヌマキ」。
写真をクリックすると拡大写真(450x600)が
表示されます。
2012/5/13(8:57,8:57)
「清末用屋敷の大イヌマキ」の下部(左)と上部(右)。
樹高12m、幹周2.8m(胸高周囲)、推定樹齢300年とある。
下関地域の領主であった「毛利清末藩」屋敷内にあったものを、「田中義一」が総理大臣になった
記念として、田中別邸に記念植樹しようとしたが、「余りの大きさに狭い道を運べずに断念した」
という逸話が伝えられているという。
2012/5/13(9:01)
「春日神社」。
奈良の「春日大社」が本社で、「毛利輝元公」が
萩を居城とせられるに及び防長二州の祈願所と
定めたとある。
2012/5/13(9:04)
「旧児玉家長屋(庭側)」。
「児玉家」は、萩藩寄組に属し、2,243石余
の大身武士であったという。
建物は、木造平屋建て、桁行32.67m、
梁間4.59m。
2012/5/13(9:06)
「旧児玉家長屋内部」。
2012/5/13(9:07)
「旧児玉家長屋内部」。
2012/5/13(9:09)
「旧児玉家長屋(外側)」。
道路沿いの外廻り壁は「白壁」、腰は「なまこ
壁」とし、出格子を一ヶ所設けている。
2012/5/13(9:12)
「平安古の総門跡」。
「平安古(ひやこ)地区」に接していることから
「平安古の総門」と呼ばれていたとある。
2012/5/13(9:13)
「平安古の総門跡」。
総門は跡形もなく、石碑と案内板だけがある。
2012/5/13(9:14)
「追廻し筋」。
写真奥の突き当たりが、「鍵曲」になっている。
2012/5/13(9:16)
「旧明倫館跡」。
5代藩主毛利吉元により、享保4年(1719)に創建
された藩校の跡。130年間に渡り、防長二州に
おける最高学府であり、設備、教育内容共に全国
有数のものであったという。
2012/5/13(9:21)
「堀内鍵曲」。
「鍵曲(かいまがり)」は、敵の侵入や攻撃に備えるため、道の左右が高い土塀で囲まれ、見通しのきかない「鍵手形」になっている。
2012/5/13(9:22)
「堀内鍵曲」。
上のパノラマ写真の左奥から撮影。
従って、パノラマ写真とは左右が逆になり、
この写真左に写る2階建ての建物が、パノラマ
写真のほぼ中央に写っている建物である。
2012/5/13(9:25)
「口羽家住宅」。
「口羽家(くちばけ)」は、関ヶ原の役後、
毛利に従い萩に移り、藩寄組として1,018石
余りを領したという。写真中央に写る「表門」は
江戸桜田の藩邸の門を下賜されたもので、
萩に現存する門では最大規模を誇るという。
2012/5/13(9:35)
「指月橋」に戻る。
写真に写るのは「萩八景遊覧船」。
時間で概ね3時間、距離にして約5km。
坂もなく見どころの多い散策であった。
続けて、「萩城下町(円政寺編)」も
ご覧下さい。

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