石見銀山
(町並み地区:2/2)

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2012/5/12(7:45)
「西性寺」の山門。
このページは、「石見銀山(町並み地区:1/2)」
のページからの続きです。
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「石見銀山(町並み地区:1/2)」のページも
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2012/5/12(7:45)
「西性寺」の本堂。
「西性寺」は、寛正年間(1460~1466)に天台宗
から浄土真宗に改宗。後に、本願寺が織田信長と
戦った「石山合戦」にも門徒を率いて参加したと
いう。
現在の本堂は、弘化2年(1845)に再建され、
大森町では最大規模の寺院とある。

2012/5/12(7:46)
「西性寺」の経蔵。
「経蔵」の四面には、「鳳凰」「菊」「牡丹」等
の「鰻絵」が書かれているという。
「鰻絵」は、土塀塗りの技術を用いて、漆喰で
造る浮き彫り(レリーフ)のことで、明治に
入ってから盛んに作成され、今でも石見地方の
寺院や民家に多く残るという。

2012/5/12(7:48)
「西性寺」から道路に出たところに架かる橋。
橋に沿って通る配管等は、木製の覆いで隠され、
古い町並みの雰囲気を害さぬように工夫されて
いる。
2012/5/12(7:49)
「青山家」。
郷宿「田儀屋」の遺宅で、18世紀中頃の
大森には6軒の郷宿が設けられていたという。
2012/5/12(7:50)
理容館「アラタ」。
2012/5/12(7:51)
「山陰合同銀行(大森代理店)」。
2012/5/12(7:52)
「熊谷家住宅」。
「熊谷家」は、17世紀に石見銀山の経営に
携わり、その後「掛屋」や「郷宿」、代官所の
御用達を務め、当主は代々町役人(年寄職)を
勤めたとある。
内部は、有料で一般公開されている。
2012/5/12(7:53)
「郷原医院」。
休業中のようであった。
2012/5/12(7:54)
「熊谷家住宅」と「石見銀山資料館」の間の
町並み。
2012/5/12(7:58)
「石見銀山資料館(大森代官所跡)」。
石見銀山関連の文献資料や鉱山道具、県内外の
鉱石などが展示されている(有料)。
建物は、明治35年(1902)に建てられた「邇摩郡
役所」が、そのまま利用されている。
2012/5/12(7:59)
「城上神社」の鳥居。
2012/5/12(8:00)
「城上神社」の社殿。
建物は、江戸の「亀戸天満宮」を手本にしたと
伝えられるという。
2012/5/12(8:01)
城上神社境内にある「相生の松」。
樹齢約300年。黒松と赤松が一体となった
珍しい松であったが、平成2年(1990)赤松の
枝葉が枯れ始めたため、赤松の樹幹地上1.6m
の所で伐採し、黒松に被害が及ぶのを防いだと
いう。
2012/5/12(8:02)
城上神社境内にある「亀石」。
説明板には「亀石」の伝承が書かれている。
写真をクリックすると「亀石」の伝承(800x500)が
表示されます。
2012/5/12(8:04)
「城上神社」の本殿。
2012/5/12(8:05)
「鳴き竜」の天井。
三瓶山近くの絵師「梶谷圓隣斎守休」が描いたと
いわれ、天井の下で拍手をすると共鳴する。
写真をクリックすると「鳴き竜の天井(600x450)」
が表示されます。
2012/5/12(8:06)
「城上神社」の幣殿。
2012/5/12(8:10)
「岡家」。
銀山附地役人の居宅であったという。
2012/5/12(8:13)
「勝源寺」の山門。
「勝源寺」は、江戸幕府2代目奉行の竹村丹後守
が大檀那となって造ったといわれる浄土宗の寺院
で、境内には、丹後守の墓所の他、5人の代官の
墓所がある。
また、元禄の頃に再建されたという、境内裏山の
「東照宮」には、徳川家康を筆頭に12代将軍
までの位牌が祀られる(現在は本堂に安置される)
他、隠れキリシタン地蔵等が拝観できる
(拝観は、予約を除き土日のみで、有料)。
2012/5/12(8:14)
「勝源寺」の本堂。
まるで、銀山が栄えていた頃にタイムスリップ
したような町並みが、800mにも渡り残る。
すごい事である。
さあ、次は「銀山地区」を歩きます。
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