石見銀山
(銀山地区:2/2)

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2012/5/12(9:41)
「吉岡出雲墓(旧極楽寺)」の入口。
「吉岡出雲墓」へは、約250m。参道は急な
登りで、階段は283段とある。
このページは、「石見銀山(銀山地区:1/2)」
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2012/5/12(9:42)
「吉岡出雲墓(旧極楽寺)」には寄らず、
遊歩道を更に南に進むと、すぐ先で、遊歩道は
終わり、平行していた車道(市道銀山線)と
合流した。(写真は、振り返って撮影したようで
あるが、記憶は曖昧である)

2012/5/12(9:45)
「福神山間歩」。
銀を採掘するための坑道を「間歩」と呼び、
石見銀山には、大小合わせて約600の「間歩」
があるといわれる。
この「福神山間歩」は、山師個人が経営した
「自分山」で、入口から斜めに掘られ、銀山川の
下を横切って仙ノ山方面に延びる特殊な構造の
坑道だとある。

2012/5/12(9:47)
「福神山間歩」の近くにある間歩。
2012/5/12(9:48)
「自転車置場」。
自転車は、此処に止めて、この先「龍源寺間歩」
へは、徒歩となる。
なお、往きは直進するが、帰りは左の橋を渡って
戻ってくる。
2012/5/12(9:49)
「高橋家」。
天保10年(1839)頃、町年寄山組頭を勤めた、
「高橋富三郎」の遺宅とある。
酒造なども行っていた建物の内部には、約270
㌧の貯水槽があり、今でも町並み保存地区の
消火栓(50m毎に51箇所)につながっている
という。
2012/5/12(9:53)
「龍源寺間歩」の料金所。
2012/5/12(9:54)
「龍源寺間歩」の案内板。
「龍源寺間歩」は、江戸中期以後に開発された
間歩で、坑道は入口から水平に約630m続いて
おり、そのうち入口から156mが公開されて
いる。そこから、新たに掘られた観光用の連絡
通路(116m)で「栃畑谷」に抜けるように
なっており、坑内は一方通行になっている。
2012/5/12(9:56)
「龍源寺間歩」の入口。
この「龍源寺間歩」は、「大久保間歩(870m)」
に次ぐ大坑道で、昭和18年(1943)まで稼働して
いたという。
また、石見銀山の中では唯一、常時公開されて
いる間歩である。
注:「大久保間歩」も公開されてはいるが、期間
限定で、落盤等の恐れのない約150mを、完全
予約制のガイド付きツアーとしての公開である。
2012/5/12(9:58)
坑内は意外と広く感じるが、入坑しやすいように
床面を一部掘り下げているところもあるという。
2012/5/12(9:59,10:01)
「横穴(ひ押し坑)」。
鉱脈に沿って掘り進んだ横穴は、「ひ押し坑」と呼ばれ、見学路の中にも、このような横穴が
20ヶ所ほどある。これら横穴には照明が設置され、奥まで見えるように工夫されている。
2012/5/12(10:03)
「竪坑」。
垂直に掘られた坑道で、カメラを持った手を
伸ばし、レンズを下に向けて撮影。
この竪坑は、間歩に溜まった水を、下の永久坑道
へ排水するために、垂直に100m程掘られて
いるという。
2012/5/12(10:06)
坑道内の壁面には、当時の「ノミ」の跡等も、
そのまま残る。
また、この岩は、白色~灰色の「石英安山岩」で
、表面に何本もの割れ目(断裂・クラック)が
あり、この割れ目に沿って熱水が通過すること
で、銀、金や銅等の金属が蓄積されたという。
2012/5/12(10:08)
公開用坑道(旧坑道)の終点。
この先も、江戸時代に掘られた、高さ約2m、
幅約90㎝の坑道が続くが、現在は、この先
30~40mの地点で落盤のため塞がっている
という。
2012/5/12(10:08)
観光用に掘られた連絡通路(新坑道)。
長さが116mある。
2012/5/12(10:10)
連絡通路(新坑道)の出口付近に並ぶ電照板。
この電照板は、島根県指定文化財(古文書)
「石見銀山絵巻二巻」のうち上巻から、坑道内
作業の様子を、15枚の電照板に仕立てたと
ある。
以降、この電照板の中から3枚を紹介する。
2012/5/12(10:10)
「四つ留之図」。
坑道の入口を「四つ留」といい、石見銀山では、
縦約1.8m、横幅1.5mの間歩入口に、直径
90㎝位の栗の丸太で四本柱を組んで、土砂の
落ちるのを避け、安全な入口(四つ留)としたと
ある。
2012/5/12(10:11)
「唐箕風箱之図」。
江戸時代中頃から、「唐箕」を改良して、坑外の
風を坑内に昼夜送る作業を行ったとある。
注:「唐箕(とうみ)」とは、穀物を脱穀した後、
籾殻や藁屑を風によって選別する農具のこと。
2012/5/12(10:11)
「鉱石を運ぶ」。
狭い坑道の中を、「さざえの殻」のランプの
明かりだけを頼りに、鉱石を「かます」に入れ、
背負って運んだとある。
2012/5/12(10:12)
「龍源寺間歩」を出る。
入口からは離れており、ここから400m程歩く
と、9時48分に通った「自転車置場」に出る。
2012/5/12(10:13)
「龍源寺間歩」を出たところにも複数の間歩が
ある。
2012/5/12(10:21)
「佐毘売山神社」の参道。
2012/5/12(10:22)
「佐毘売山神社」。
「佐毘売山神社」は、永享6年(1434)頃、室町
幕府将軍の命で建立されたといわれ、鉱山の
守り神「金山彦命」を祀る。
2012/5/12(10:23)
近くで見る「佐毘売山神社」。
現在の建物は文政2年(1819)に再建され、
石見銀山では最大の神社だという。
2012/5/12(10:28)
橋の上から撮る「高橋家」。
写真の右に「自転車置場」がある。
2012/5/12(10:33)
車道(市道銀山線)から「遊歩道」への分岐。
帰りは、車道(市道銀山線)を歩く。
2012/5/12(10:43)
「清水寺前休憩所」。
2012/5/12(10:43)
「清水寺前休憩所」の中。
2012/5/12(10:45)
「石見銀山に関する研究の碑」。
「清水寺前休憩所」の道路反対側にある。
2012/5/12(10:54)
「西本寺」の山門。
昭和36年(1961)に、銀山川対岸にあった、
曹洞宗「龍昌寺」から移築され、「龍昌寺」が
慶長9年(1604)に伽藍を造営したときに造られた
と推定されるとある。
2012/5/12(10:55)
「西本寺」の本堂。
「西本寺」は、浄土真宗本願寺派の寺院で、
江戸時代初期の寛永年間に、出雲国神門群白枝村
から移転したと伝えられるとある。
2012/5/12(10:56)
「下河原吹屋跡」。
17世紀初頭(江戸時代初め)の銀精錬遺跡。
ここでは、鉛を利用した「灰吹法」と呼ばれる
精錬法で銀を取り出し、銀鉱石を砕いた要石や
選別のために水をためていた跡などが残る。
建物は、遺跡を高い位置から見るための展望台。
注:「灰吹法」とは、朝鮮半島から伝えられた
金銀の製錬方法で、 国内では石見銀山に最初に
導入され、銀の精錬技術は飛躍的に発展する。
その後、全国の鉱山に普及し、現在でも
その原理が使われているという。
2012/5/12(10:58)
「大森小学校」の校門。
2012/5/12(10:59)
「大森小学校」の校舎。
1年から6年までの全校生徒が15名という、
現役の小学校である。木造で平屋建ての校舎は、
「鰻の寝床」の様に長い形をしているが、
奥の方は「幼稚園」になっている。
2012/5/12(11:02)
車道(市道銀山線)から見る「妙正寺」。
8時43分に「遊歩道」から撮影したお堂が、
この位置からは小さく写る。
この後、車道を「石見銀山公園」まで歩き、
11時10分、石見銀山を離れる。

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