奥之院
(御廟橋-中の橋)

このページの写真は、降雨の中撮影していますので、
雨粒が写っていたり、レンズに雨水が着いたまま撮影している写真があります。

また、「奥之院」のページは、2部構成になっています。
本ページの下に、関連ページへのハイパーリンクがあります。

この下にある「プルダウンメニュー」が表示されない場合は、ページ最下行にあるハイパーリンクをご利用下さい。





2012/3/23(9:51)
「御廟橋」から3.5倍ズームで撮る
「奥之院」。
奥に写る「燈籠堂」では、祈親上人が献じた
祈親灯(きしんとう)と、白河上皇が献じた
白河灯(しらかわとう)が、千年近くの間燃え
続けているという。
なお、このページは、奥之院(裏参道入口-
御廟橋)のページからの続きです。
直接、このページに入られた方は、本ページ下に
関連ページへのハイパーリンクがありますので、
奥之院(裏参道入口-御廟橋)のページを先に
ご覧下さい。

2012/3/23(9:51)
「御廟橋」から見る表参道。

2012/3/23(9:53)
表参道脇の石像。

2012/3/23(9:54)
「水向地蔵」。
「玉川」を背にして、ここに並ぶ「地蔵菩薩」や
「不動明王」「観音菩薩」等を総称して「水向地
蔵」と呼び、奥の院に参詣する人々は、御供所で
経木(水向塔婆)を求めて、「水向地蔵」に
納め、水を手向けて先祖の冥福を祈るという。
2012/3/23(9:55)
「玉川」の対岸には「不動明王」か?。
2.75倍ズームにて撮影。
2012/3/23(10:02)
表参道に並ぶ「五輪塔」。
2012/3/23(10:06)
「織田信長墓所」。
さすが日本一の霊場。表参道沿いには、皇室、
公家、大名などの墓が多数並び、戦国大名に
至っては、その6割以上の墓所があると
いわれる。
2012/3/23(10:08)
「有栖川家御宝塔」。
2012/3/23(10:09)
「興山応其上人廟」。
「応其上人」は、高野山を焼き討ちから救うと
ともに、その復興に活躍したとある。
2012/3/23(10:11)
「豊臣家墓所」。
「豊臣秀吉公」とその母公、秀吉の弟である
「大納言秀長」と夫人など、豊臣一族の墓と
ある。
2012/3/23(10:14)
「松平秀康及び同母霊屋」。
越前松平家初代当主「松平秀康」とその母公。
幅奥行き共に7.5mの二基の石廟が並ぶ。
2012/3/23(10:18)
「安芸 浅野家墓所」。
2012/3/23(10:18)
「法然上人供養塔」。
2012/3/23(10:22)
「加賀前田家二代利長墓所」。
2012/3/23(10:25)
「芭蕉句碑」。
「父母の しきりにこひし 雉子の声」とある。
2012/3/23(10:26)
杉木立の参道を「中の橋」に向かう。
2012/3/23(10:29)
「ビルマ方面戦没英霊納骨塔パコダ」。
2012/3/23(10:30)
「全国消防殉職者慰霊碑」。
近くには「東京消防慰霊碑」もある。
2012/3/23(10:35)
「密厳堂」。
高野山から離れ「新義真言宗」を唱え「根来寺」
を興した「覚鑁上人 興教大師」を祀る。
2012/3/23(10:37)
「松下電器物故者墓(左)」と「松下幸之助
供養塔(右)」。
2012/3/23(10:42)
「北ボルネオ戦没者墓所」。
2012/3/23(10:43)
「中の橋」。
「一の橋」と「御廟橋」の中間にあるため、
「中の橋」と呼ばれるが、正式には「手水橋
(ちょうずばし)」という。
下を流れる川は、昔から「金の河」と呼ばれ、
「三途の川」を表し、この橋を渡ると、死の世界
に入るといわれる。
2012/3/23(10:44)
「姿見の井戸」。
この井戸の水を飲めば、たちまち痛みが止まる
ことから、古くは「薬井戸」という名前だったと
いうが、江戸時代にはこの井戸を覗き、自分の姿
が水に映らなければ3年以内の命であるという
説が広まり「姿見の井戸」と呼ばれるように
なったという。
2012/3/23(10:44)
「汗かき地蔵」。
世の中の人々の苦しみを、「汗かき地蔵」が
身代わりになり一身に受けているので、いつも
汗をかいているという。
この後、時間が許せば、「一の橋」まで歩きた
かったのだが、「中の橋」を渡ったところを
左に曲がり、10時52分「裏参道入口」に戻る。

 奥之院(裏参道入口-御廟橋)に戻る   高野山に戻る

 旅の記録(和歌山県)に戻る    旅の記録に戻る    Donichi’s HomePageに戻る