うだつの上がる町並み
(美濃橋&上有知湊)

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2015/10/26(6:34)
道の駅「美濃にわか茶屋」。
道の駅「美濃にわか茶屋」は、長良川鉄道「美濃市駅」
から直線で北に約1.7km。「うだつの上がる町並み」の
中心部からは、北に約1kmの場所にあり、「美濃橋」と
「上有知湊」は、道の駅のすぐ西側を流れる「長良川」を
下流に少し歩いたところにある。
2015/10/26(6:46,6:47)
「美濃橋」と「お姫の井戸」の案内板。
道の駅「美濃にわか茶屋」から「長良川」の左岸に出ると、下流方向には「美濃橋」が見える。
左の写真は、下流方向に少し歩いた所で撮影。写真中央に写る岩の中に「お姫の井戸」がある。
右の写真、「お姫の井戸」の案内板には、この地方に伝わる伝説が書かれている。
昔、この辺りには龍神が住み、井戸にはその姫が住んでいて、井戸を汚すと龍神の怒りに触れ大洪水になると
言い伝えられていた。
ある年、大干ばつに見舞われ、雨乞いも効果がなく、村の庄屋「五兵衛」は、井戸を汚せば雨が降るのではと、
板とゴミを燃やし井戸を汚したところ、その翌朝から激しい雨が3日3晩降り続き、堤防は破壊され、家や田畑は
濁流に沈み、ついに「五兵衛」は、龍神の怒りを抑えようと、濁流に身を投げたところ、ようやく雨が止んだという。
それ以来、井戸には、しめ縄を張り、清浄に保ち、夏になると、しめ縄を新しく替え、龍神と「五兵衛」を祀る
「川祭り(現在は、花火大会)」が行われるようになったという。
左の写真をクリックすると拡大写真(600x450)が表示されます。
2015/10/26(6:47)
「お姫の井戸」。
「井戸」の上にある岩には、しめ縄が張られている。
写真をクリックすると拡大写真(600x450)が
表示されます。
2015/10/26(6:50,6:50)
「長良川」の左岸で見る「美濃橋」。
「美濃橋」は、大正5年の竣工で、現存する日本最古の近代吊り橋と呼ばれ、
国の重要文化財に指定されている。
橋は、長さが113m、幅3.1m。歩行者と自転車専用の橋で、「老巧化して危険のため、
通行は、20人以下」との通行規制の看板が立つ。
右の写真をクリックすると拡大写真(450x600)が表示されます。
2015/10/26(6:51)
「美濃橋」を歩き、川の左岸から右岸へと渡る。
2015/10/26(6:52)
「美濃橋」の上から見る「長良川」の上流側。
2015/10/26(6:52)
「美濃橋」の上から見る「長良川」の下流側。
2015/10/26(6:54)
「長良川」の右岸で見る「美濃橋」。
左岸の塔には、橋の名前が「橋濃美」と漢字で
書かれていたが、右岸の塔には、「しはのみ」と
ひらがなで書かれている。
2015/10/26(6:56)
再び橋を歩き、右岸から左岸に戻る。
2015/10/26(6:56)
「美濃橋」の上から見る「お姫の井戸」。
写真をクリックすると拡大写真(600x450)が
表示されます。
2015/10/26(7:00,7:00)
「前野渡舟場跡」。
「長良川」の左岸、「美濃橋」のすぐ下流にある。
右の写真、一応下を覗いてはみたが、「渡舟場」の痕跡らしきものは、特に残っていないようであった。
左の写真をクリックすると「前野渡舟場跡」の案内板(800x600)が表示されます。
2015/10/26(7:01)
「川端地蔵」。
清流「長良川」では、多くの青少年が泳ぎ体を鍛えた。
そのため、水の犠牲者も多く、これを憐れんだ
当時の住職は浄財を募り、昭和27年(1952)、
等身大のお地蔵さんを建立したとある。
写真をクリックすると「川端地蔵さんの、いわれ」の
案内板(800x600)が表示されます。
2015/10/26(7:03)
「川端地蔵」の裏に建つ「四阿」。
2015/10/26(7:03)
「四阿」の下を流れる「曽代用水」。
「曽代用水」は、周辺の原野を開拓して「新田」を
開くため、寛文7年(1667)に着工。10年の歳月を経て
完成したとある。
写真をクリックすると「曽代用水」の案内板(800x600)が
表示されます。
2015/10/26(7:05)
「住吉(川湊)灯台」。
川に立つ灯台というのも珍しいが、すぐ近くに民家が
建つなど、他にない雰囲気である。
2015/10/26(7:07)
「住吉(川湊)灯台」。
明治末期に電車が開通するまでの間、物資交流の
要地であった「上有知湊(こうづちみなと)」。
「住吉(川湊)灯台」は、その「川湊」の川面を照らすと
共に、水の守護神、住吉神社の献灯を兼ねて
建てられたとある。
写真をクリックすると拡大写真(450x600)が
表示されます。
2015/10/26(7:07)
「山陽・藤城の詩碑」。
「住吉(川湊)灯台」の脇に立つ。
文化10年(1813)初冬、「上有知湊」から船で帰る文豪
「頼山陽」との別れを惜しむ郷土の先哲「村瀬藤城」。
その二人が別れるときに賦したという詩が刻まれる。
写真をクリックすると「山陽・藤城の詩碑」の
案内板(800x600)が表示されます。
2015/10/26(7:08)
「上有知(こうずち)湊跡」。
番船40艘。美濃和紙を始めとする物資交流や
上流から運ばれてくる木材運搬の中継基地として、
大変重要な湊であったという。
写真をクリックすると「上有知湊跡」の
案内板(800x600)が表示されます。
2015/10/26(7:08)
「上有知湊跡」から見上げる「住吉(川湊)灯台」。
灯台の高さは、約9m。
現在も、夜は灯りがともるという。
2015/10/26(7:09)
「上有知湊跡」から見上げる「住吉神社」。
「上有知湊」の守護神であり、舟運の安全を祈るために
奉祀されたという。
写真をクリックすると近づいて撮る「住吉神社」が
表示(450x600)されます。
2015/10/26(7:10)
「上有知湊跡」と「住吉(川湊)灯台」。
写真をクリックすると拡大写真(600x450)が
表示されます。
2015/10/26(7:11)
「川端地蔵」まで戻る。
写真の建物は、「川端地蔵」脇に建つ「公衆トイレ」。
2015/10/26(7:16)
「美濃橋」まで戻る。
道路脇の崖の「蔦」は、紅葉していた。
写真をクリックすると、紅葉する「蔦」の
写真(600x450)が表示されます。
2015/10/26(7:24)
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