佐渡金山
(道遊坑コース)
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2016/9/27(12:30,12:30)
「佐渡金山」の駐車場。
「佐渡金山」は、新潟県佐渡市にある金山で、慶長6年(1601)山師3名により開山。
2年後の慶長8年(1903)には、佐渡奉行所が置かれ、小判の製造が行われたという。
東西3,000m、南北600mに広がるという8本の金鉱脈に開削された坑道は、
総延長約400km。産出された総量は、金78㌧、銀2,330㌧に及ぶという。
資源枯渇や労働賃金の高騰により採算が取れなくなる等、平成元年(1989)に創業を中止。
現在では、一部坑道が観光施設として有料で開放されており、常設の2コースと、予約でガイド付きの
2つのツアーが設けられている。(平成29年(2017)には、もう1つコースが追加される予定)
「佐渡金山」のページでは、常設の明治官営鉱山コース「道遊坑」と、江戸金山絵巻コース「宗太夫坑」を
体験した記録を紹介する。
右の写真、チケット売場に向かう途中の軒下には、「坑内温度は、10℃です」とある。
左の写真をクリックすると「佐渡金山」の案内版(600x450)が表示されます。
2016/9/27(12:33)
「道遊坑」コースの入口。
常設の「道遊坑」と「宗太夫坑」の2コースは、
各々別料金なのだが、両坑道を巡る場合は、
料金が割引となるので、両坑道のチケットを購入。
チケット売場横の入口は、左右に別れており、
「先に、左の道遊抗にお入り下さい」といわれ、
「道遊抗」へと入る。
「道遊坑」コースでは、明治から操業が中止される
までの約100年間使用された坑道内に、当時使用
されていたトロッコや機械類を保存、展示される他、
「道游の割戸」を間近で見ることができる。
なお、チケット購入時に付いてくる佐渡金山の
パンフレットには、「道遊坑」コースの所要時間は、
約40分とある。
2016/9/27(12:33)
「鋼枠」で囲まれる坑道。
落石の可能性がある場所は、鉄骨や坑木で坑道を
囲むとあり、入口近くの坑道は、幅約2.0m、
高さ2.2mの「鋼枠」が1.5m間隔で設置されている。
2016/9/27(12:34)
「坑木」の枠で囲まれる「坑道」。
このような岩盤崩落の防止枠を「三ッ留」と呼び、
「坑木」は、岩盤が変形したときに、坑木が折れる等で、
事前に危険を察知できるとある。
2016/9/27(12:35)
枠のない「坑道」。
坑道の壁面には、「金銀鉱脈のできかた」、
「金鉱石」、「手掘りから近代的採掘法へ」他、
多くの説明パネルが立つ。
2016/9/27(12:37)
「酒の貯蔵庫」。
「坑道」の一部は、「酒の貯蔵庫」として使われている。
(一般見学者が、貯蔵庫の中に入ることはできない)
貯蔵庫入口の温度計は、12℃を指している。
写真右上には「煙穴」があり、坑道内では、
多くの人が働き、灯りのために油を燃やしたため、
多くの酸素を必要とした。
このため、地上と坑道を結ぶ「煙穴」が掘られたとある。
写真をクリックすると「煙穴」の写真(450x600)が
表示されます。
2016/9/27(12:38)
「信号機」。
「坑木」には、単線のトロッコ線路での衝突を防ぐため、
赤色と緑色の電球による「信号機」が設けられており、
信号の切替えスイッチの操作を体験することができる。
写真をクリックすると「信号機」の部分を切抜く
画像(600x450)が表示されます。
2016/9/27(12:40)
「道遊の割戸」直下の採掘跡。
この場所は、「道遊の割戸」の真下にあたり、
発破をかけて崩した鉱石は、ここに落ちる。
そして、ここからトロッコに乗せて運んだとある。
2016/9/27(12:41)
「道遊の割戸」直下の様子。
「道遊の割戸」から落とされた鉱石を運んだトロッコや
線路が残されている。
写真をクリックすると拡大写真(600x450)が
表示されます。
2016/9/27(12:43)
「道遊脈の採掘跡」。
鉱脈は、「道遊の割戸」の頂上から地下まで、
ほぼ垂直に、長さ120m、幅10m、深さ100mの
大きさがあり、慶長6年(1601)に発見されてから、
平成元年(1989)に操業が停止されるまでの、
388年間にわたり採掘が行われており、
世界一の長寿鉱脈であったとある。
2016/9/27(12:43)
「2トン蓄電池式機関車」。
2016/9/27(12:44)
「江戸時代の坑道」。
「青盤脈」や「道遊脈」の分岐脈を目指し、いくつかの
坑道が江戸時代に開削された。
また、江戸時代の坑道は、3尺×2尺の大きさが、
標準だが、この坑道は、それよりも若干大きいとある。
2016/9/27(12:45)
「坑口」。
江戸時代の中期、幕府は江戸や大坂などの都市に
あふれていた戸籍のない人々を集め、排水作業に
あたらせると共に、都市の治安を図っていた。
この「坑口」の奥には、その「無宿人」の休憩所が
あったため、明治時代に「道遊坑」が開削された際も、
この「坑口」だけは、塞がずに残されたとある。
2016/9/27(12:45)
「道遊抗」。
明治32年代に開削された坑道で「通洞坑」とも
呼ばれる重要な坑道で、この坑道を基準として、
上下30m、または45m間隔で、坑道が展開され、
その総延長は、400kmに達したとある。
2016/9/27(12:47)
「待機所」。
坑道内では、人の通行よりも鉱石を積むトロッコの方が
優先であり、狭い坑道内でトロッコが通過するときに、
人が待機するための場所とある。
2016/9/27(12:48)
「道遊抗」出口。
写真は、振り返って撮影。
ここで、涼しい「坑道」から暖かい外に出たため、
結露(凝縮)により、カメラのレンズが曇ってしまい、
この後しばらくの間、レンズを吹きながらの撮影と
なったのだが、カメラの内部まで結露(凝縮)して、
カメラが壊れるのではと、心配になる程であった。
2016/9/27(12:50)
「浜石」。
「浜石」は、佐渡鉱山の主要鉱脈の上部が、長年の
侵食により削り取られ、相川湾へと流れ出し、
海岸沿いに打ち上げられた「鉱石」のことである。
大正時代から、この「浜石」を採掘し、金銀の回収
(製錬)が行われるようになったが、戦時下の
昭和13~18年頃には、海岸沿いの家屋約300軒を
撤去。大規模な採掘を行い、これまでに約100万㌧の
「浜石」が採掘されているが、現在でも相川市街地の
下には、100万㌧の「浜石」が残されているとある。
2016/9/27(12:51)
「道遊の割戸」に向かう。
「道遊抗」を出たところには、「機械工場」があるのだが、
順路は、ここでUターンするように「道遊の割戸」へと
向かうようになっている。
写真左には、「道遊抗」の出口が写る。
2016/9/27(12:51)
緩い坂道を登る。
写真上の「霧」のようなものは、レンズの曇り。
2016/9/27(12:53)
前方に、「道遊の割戸」。
佐渡金山のシンボル「道遊の割戸」である。
山頂の「割戸(割れ目)」は、江戸時代に
「鏨(たがね)」と「鎚(つち)」で掘り割られた跡。
写真をクリックすると「道遊の割戸」の
案内版(800x600)が表示されます。
2016/9/27(12:55)
「高任神社」。
「道遊の割戸」は、「高任神社」の脇を抜けた所にある。
2016/9/27(12:57)
「道遊の割戸」の下部。
下部は明治以降、西洋技術を導入して、大規模に
採掘されたという。
2016/9/27(12:58)
「道遊の割戸」。
ここまで近づくと、観光パンフレットなどで見る
「道遊の割戸」とは、大分イメージが異なる。
観光パンフレットなどに載る「高任公園」から撮影した
「道遊の割戸」は、次のページで紹介しています。
写真をクリックすると拡大写真(450x600)が
表示されます。
2016/9/27(12:58)
「高任神社」に向け戻る。
2016/9/27(13:00)
「高任神社」。
この社は、相川下山ノ神町にある鉱山の総鎮守
「大山祇神社」の分社で、初代佐渡鉱山局長であった
「大島高任」の偉業を称えてつけられた地名の
「高任地区」から命名されたとある。
写真をクリックすると「高任神社」の
案内版(800x600)が表示されます。
2016/9/27(13:04)
「機械工場(道遊坑を出たところ)」に戻る。
次のページでは、「機械工場」の中に入り、「高任坑」、
「粗砕場」、「高任公園」等を巡る、「道遊抗」コースの
後半を紹介します。
このページは、佐渡金山(道遊坑コース)2/2に続きます。
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