上田城跡公園&上田市内
(上田城跡公園)

「上田城跡公園&上田市内」のページは、2部構成になっています。
本ページの下に、関連ページへのハイパーリンクがあります。

この下にある「プルダウンメニュー」が表示されない場合は、ページ最下行にあるハイパーリンクをご利用下さい。





2010/6/6(8:03)
「上田城南櫓」。
櫓(やぐら)とは、敵のようすを見たり、射撃の
ために城壁等の上に設けた建物。
上田城は、天正11年(1583)「真田昌幸公」が
築城。本丸・二の丸跡が公園として整備され、
3基の隅櫓を残す。

2010/6/6(8:04)
「上田城西櫓」。
江戸時代の初期、寛永3~5年(1626~1628)に
かけて、真田氏の後の城主「仙石氏」によって
建てられ、上田城で建築当初のままに残されて
いる唯一の建物。

2010/6/6(8:13)
「真田赤備之兜」。
二度にわたり徳川の大軍の攻撃を退けた真田の
「智勇」は、大阪夏の陣において武具を赤で
統一。「真田赤備之」部隊を率いた「真田幸村
公」がかぶった朱色で鹿角型の兜が「赤備之兜」
とある。

2010/6/6(8:14)
「真田神社」。
真田・仙石・松平の歴代上田藩主を祀る。
「上田城」は、明治7年全国の城の民間払い下げ
を受けた「丸山平八郎氏」が公園として整備。
その後、明治12年と26年の2度に分け神社に
寄附。その後、「上田城跡公園」は、大正14年
までの間、「真田神社」が管理していたとの
こと。(現在は、上田市が管理)
2010/6/6(8:15&8:25)
「酒樽茶室」。
「真田神社」の境内にある。左が「亀庵」、右が「百余亭」。
使い勝手の程は分からぬが、なんとも粋な「茶室」である。
2010/6/6(8:17)
「酒樽茶室」の内部。
下は、「畳」か「ゴザ」のようである。
正面の棚には、なぜか「徳利」と「枡」が乗って
いる。
2010/6/6(8:20)
「真田井戸」。
中には「抜け穴」があり、城北の「太郎山麓」の
「砦」や、「藩主居館跡」にも通じていたといわ
れる。
2010/6/6(8:21)
近くで見る「上田城西櫓」。
建物の外壁は煤と柿渋で防水した板が使われて
いるとのこと。
2010/6/6(8:28)
「真田石」。
案内板の左に見える大きな石が「真田石」。
城内一の大石(高さ約2.5m、幅約3m)で、
真田幸村の兄「真田信之公」の松代移封のとき、
この石を家宝にと、持ち去ろうとしたが、
「びくり」ともしなかったという。
2010/6/6(8:30)
「東虎口櫓門」。
「虎口」とは、城の通路の出口のこと。
左にあるのが、「上田城南櫓」。
2010/6/6(8:36)
「上田城櫓」の中に入ってみた。有料だが小銭で
入れる上に、共通券になっていて、「市立博物
館」と「山本鼎記念館」にも入ることができる。
写真は、「上田城南櫓」の「矢狭間(敵の来襲に
矢で防戦するための小窓)」。
2010/6/6(8:41)
「歴代上田城主」の説明板。
2010/6/6(8:42)
「石おとし場」。
2010/6/6(8:44)
「上田城金箔鯱瓦」。
上田城の築城当時の「金箔鯱瓦」を復元した
もの。
2010/6/6(8:46)
「上田城北櫓」。
「東虎口櫓門」を挟み、「上田城南櫓」の反対側
にあり、この中にも入ることができる。
2010/6/6(8:48)
「上田城隅櫓の懸魚と鰭」。
「西櫓」の西側破風についていた飾りで、安政
6年(1859)の製作。昭和57年、「西櫓」修理の
際に、新しいものと取りかえられたとある。
2010/6/6(8:53)
右に「真田信繁(幸村)」。「幸村」は俗称で、
本名は「信繁」。
中央に「信繁」の父「真田昌幸」。この「昌幸」
が、「上田城」を築城。青年時代は「武田信玄」
に仕えたという。
左は「信繁」の長男「真田幸昌(大助)」。
父「信繁」と共に、大阪冬の陣、夏の陣と参戦
するが、この戦いにおいて父子共に戦死。
2010/6/6(9:15)
「北虎口」の石垣。
2010/6/6(9:19)
「招魂社」。
戊辰戦争や日清・日露戦争、太平洋戦争で
亡くなった方々の魂を祀る。
2010/6/6(9:43)
「本丸跡」と「お堀」の間にある「散策路」。
「上田城跡公園」は、観光客のみならず、市民の
憩いの場として親しまれているようであった。

 旅の記録(長野県)に戻る        上田市内に進む

 旅の記録に戻る    Donichi’s HomePageに戻る