私の性格

(この文章は、1999年1月に書きました)

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「旅行」もいいけど、都会で暮らす我々の心を癒してくれるのは、やはり「旅」だ。

山歩きもいいけど、家族一緒の「旅」は、やはり車になってしまう。

こんなことがあった。家族で「北海道へ行こう」と、横浜から青森に向けひたすら東北自動車道を走った。

青森に到着。「さあ、フェリーに乗って北海道だ」。と思ったのもつかの間。なんとフェリーに乗れない。

聞いてみると「明日のキャンセル待ちを受け付けてます。明日乗れるかどうかは、分かりません」とのこと。

仕方なく、下北半島に向い、途中にあるフェリー乗り場を全て回って聞いてみたが、全て同じ答え。

が~ん。考えてみれば一番混雑する、お盆の真っ只中のことでした。

そこで、急遽行き先を変更。下北半島から津軽半島に向かい、日本海側を下って、関越道で帰ってきました。

つまり、我が家の「旅」は、フェリーも宿も予約なし。風呂は、昼間どこかの温泉に入ればいい。

だって予約なんかしたら、その日のうちに予約した宿まで行かなければならないし、

素晴らしい場所に出会ったときに、好きなだけそこにいることもできないじゃないですか。

もう、10年以上前になりますが、こんな私の性格を代弁してくれる、素晴らしい文章を

新聞のコラムで見つけました。(この新聞社名、掲載時期等については、忘れてしまいました)

この文章の一部を以下に紹介します。(銀色の文字の部分です)

この文章から、「旅行」と「旅」の違い。そして、私の性格を想像していただければと思います。


 過疎を求めるのが旅で過密を求めるのが 旅行だ。

 団体旅行、観光旅行、職場旅行、研修旅行、 町内会旅行、農協旅行、温泉旅行、これらはみな、旅行であって、旅ではない。旅と旅行は違う。

 金で買うのが旅行で、金で買えないのが旅である。

 旅は片道切符である。往復切符で出かけるのは旅行だ。

 フーテンの虎さんは「旅にでる」とはいうが、「旅行をする」とはいわない。

 より大量の人をひきよせ、より多くの金をまきあげる目的でしかけられた ワナにはまるのが旅行で、そのワナを避けて行くのが旅だ。

 未知のものを見つけるのが旅で、他人の経験をなぞるのが旅行である。

 快適・安全便利・能率などを追求するのが旅行で、骨折りをいとわず、 偶然性をたのしむのが旅である。

 旅は、風景の中に身をさらす。 観光バス旅行では、ガラス窓のむこうに風景が通りすぎる。

 みなが行く時にみなが行く所にでかけるのが旅行で、 みなが行かない時にみなが行かない所を求めるのが旅だ。

 旅は管理社会からの脱出だが、旅行は管理社会の縮図である。

 旅は歩く。旅行は歩かない。 自分自身の力で自分を運ぶ。 それが旅だ。

 たとえば峠にむかって歩く、という行為を大切にしたい。峠にたどりつけば、 何か未知のものが見えてくるのではないか。いや、何も新奇なものが見えなくたっていいのだ。

 細く険しい道であればこそ、自分の足で自分を運ぶ。自分の生きる道は自分で歩くほかはない。 のりものに運んでもらうわけにはいかない。

 英語のtravel(旅)には、骨折り、労苦という意味がある。 アメリカにtourとかtouristという言葉が現れたのはずっとのちのことだ。 そしてtouristには「楽しみのために旅行する人」の意味があるという。


[皆さんにご忠告] 我が家の「旅」では、基本的に朝と夜は自炊なのですが、女房はこんな「旅」が

好きでないようで、「旅館で人の作った料理を食べて、のんびりしたい」などと、言っております。

毎日の献立を考えること、食後の後片付け、掃除、洗濯。つまり、家事から逃れられることが、

女房にとっては「心を癒す」ということになりますからね。男の勝手ばかりでは、いけないようです。


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