吉野ヶ里遺跡

この下にある「プルダウンメニュー」が表示されない場合は、ページ最下行にあるハイパーリンクをご利用下さい。





2013/10/4(8:56,8:57)
「吉野ヶ里歴史公園」のメイン(東口)ゲートと公園地図。
「吉野ヶ里遺跡」は、佐賀県神埼町の「吉野ヶ里歴史公園」にあり、日本最大の「弥生の集落」として知られる。
右の写真をクリックすると「吉野ヶ里歴史公園」の地図が拡大表示されます。
この地図画像は、1,000x1,300ピクセルあります。
地図の文字を読みたいときには、表示された画像をクリックし、スクロールバーをご利用下さい。
2013/10/4(9:04)
「吉野ヶ里歴史公園」のマスコットキャラクター。
写真は、平成13年(2001)の開園に向け公募で
選ばれた「ひみか(兄)」。
平成18年(2006)には、開園5周年記念イベントの
一環として、妹の「やよい」が誕生している。
2013/10/4(11:32)
「公園出入口」。
出入口の先には「天の浮橋」がある。
この写真は、園内を回った後で撮影。
2013/10/4(9:08)
「環壕集落ゾーン」の案内板。
「天の浮橋」を渡ると、「吉野ヶ里遺跡」のメインゾーン
「環壕集落ゾーン」である。
写真をクリックすると「環壕集落ゾーン」の地図が
拡大表示(900x550)されます。
なお、表示される地図は、「環壕集落ゾーン」の
メニューを兼ねています。
本ページでは「吉野ヶ里遺跡」の全ページを歩いた
順番に紹介しますが、この地図上で場所の名前を
クリックし、直接、該当のページを表示することも
できます。
2013/10/4(9:08)
「環壕集落ゾーン」入口にある案内板。
左の案内板は「建物等の復元整備について」とあり、
「吉野ヶ里歴史公園」は、吉野ヶ里遺跡の保存及び
活用を図るため、遺構全体を土で覆って遺構を保護し、
その上に当時(弥生時代の終わり頃)の建物等を
復元したと書かれる。
また、右の案内板「弥生時代と吉野ヶ里」には、
弥生時代の流れを辿っていける全国唯一の
遺跡とある。
写真をクリックすると「弥生時代と吉野ヶ里」の
案内板が表示(600x600)されます。
2013/10/4(9:09)
「環壕集落ゾーン」入口。
2013/10/4(9:10)
「環壕」。
大きな壕を掘り、掘った土を外側に高め、土塁として
敵の侵入を防ぐとある。
写真をクリックすると「環壕と土塁」の案内板が
表示(600x600)されます。
2013/10/4(9:10)
「逆茂木(乱杭)」。
米作りが盛んになるにつれて、水や土地を奪い合う
争いが起きるようになり、人々は自分たちの集落を
守るために、とがった木の枝や幹でバリケードを
築いたとある。
2013/10/4(9:17)
「展示室」。
遺跡から発掘された貴重な資料等を展示する。
写真をクリックすると「展示室」のページが
表示されます。
2013/10/4(9:27)
「南内郭」。
「南内郭」は、吉野ヶ里の支配者層が生活をしていた
場所と考えられているという。
写真をクリックすると「南内郭」のページが
表示されます。
2013/10/4(9:43)
「北内郭」。
「北内郭」は、吉野ヶ里の「国」の、まつりごと(祭りや
政治)の中心であったと考えられるという。
写真をクリックすると「北内郭」のページが
表示されます。
2013/10/4(9:58)
「中のムラ」。
「中のムラ」は、「北内郭」で行われる祭りや儀式、
政事に使う道具等を作る場所である。
写真をクリックすると「中のムラ」のページが
表示されます。
2013/10/4(10:03)
「甕棺墓列」。
「甕棺墓列」は、一般の人々の墓地であり、写真で
盛り上がったように見える土の下に「甕棺」が埋められ、
「吉野ヶ里」全体では、15,000基(想定)を超える
数の「甕棺」が埋められていると考えられるという。
写真をクリックすると「甕棺墓列」の案内板が
表示(600x600)されます。
注:この案内板の中に「長さ600mにもわたって」とある
が、これは、「古代の森ゾーン」にある「甕棺墓列」を
含めての距離と思われる。
2013/10/4(10:04)
「甕棺」が埋められている様子。
大型の素焼きの土器(甕棺)に亡くなった人の手足を
折り曲げて入れ、土の中に埋められる。
2013/10/4(10:05)
「甕棺墓列」。
一部は、土が掘られ「甕棺」が埋められている様子が
見えるようになっている。
奥に立つ建物は、祖霊にお供えをささげ、お祈りを
するための「祀堂」。
2013/10/4(10:10)
「北墳丘墓」。
「北墳丘墓」は、弥生時代中期前半~中頃にかけて
つくられ、吉野ヶ里集落の歴代の王が埋葬されている
特別なお墓といわれている。
写真をクリックすると「北墳丘墓」のページが
表示されます。
2013/10/4(10:24)
「北墳丘墓」を出て、北側から見る「北内郭」。
2013/10/4(10:26)
北墳丘墓の墓道を通り「倉と市」に向かう。
「墓道」は、墳丘墓に眠る祖先の霊にお参りするための
専用の道であるが、この道は吉野ヶ里集落だけでなく、
この地域全体の「国」の人々が北墳丘墓にお参りに
来ていたと考えられるという。
2013/10/4(10:52)
「倉と市」。
「倉と市」は、海外との交易品や日本各地のクニグニの
特産品などが集まり、「市」が開かれると共に、
そこで取引される品々が保管されていた倉庫が
集まっている。
写真をクリックすると「倉と市」のページが
表示されます。
2013/10/4(11:13)
「南のムラ」。
「南のムラ」は、「下戸(げと)」と呼ばれる一般庶民が
暮らす区域で、周囲を囲むような壕などの特別な
施設はなく、日本全国で見つかっている一般的な
集落のあり方と良く似ているという。
写真をクリックすると「南のムラ」のページが
表示されます。
2013/10/4(11:04)
「南のムラ」から見る「南内郭」と「倉と市」。
写真中央右に「南内郭」、中央左に「倉と市」。
2013/10/4(11:24)
「弥生くらし館」。
「弥生くらし館」は、「南のムラ」のガイダンス施設と
体験工房である。
写真をクリックすると「弥生くらし館」のページが
表示されます。
2013/10/4(11:31)
「ご案内処」。
「天の浮橋」を渡った、「環壕集落ゾーン」の入口付近に
ある。
2013/10/4(11:30)
「天の浮橋」。
橋の下には「田手川」が流れる。
【あとがき】
 このページを作成中に、平成16年(2004)12月7日にNHKで再放送された、プロジェクトX「王が眠る 神秘の遺跡~父と息子・執念の吉野ヶ里~」を録画していたことを、
思い出し、約10年ぶりに再生してみた。
 吉野ヶ里遺跡の発掘には、100名に及ぶ地元の農家や主婦の人達が協力するのだが、この人達が夢見ていたのは、「吉野ヶ里遺跡」の跡地に建設が予定され、
2,000人もの雇用を生むといわれた「神埼工業団地」で働く子供や孫の姿であった。
 そんな人達も、次々に発見される「甕棺」。そして、「甕棺」に副葬される「管玉」や「有柄銅剣」等に魅了され、ついには「吉野ヶ里遺跡」の保存へと心が傾いていくのである。
 時は、バブルの時代。考古学的にいくら貴重なものとはいえ、記録にさえ残せばと、古いものは捨て去り、新しいものを作っていった時代に、「吉野ヶ里遺跡」の保存を
選択したのであった。
 「邪馬台国」が何処にあったのかは、諸説あり解明されてないが、「魏志倭人伝」には「租賦を収むに邸閣あり」「宮室、楼観、城柵、厳かに設け、常に人あり」と
記述され、この中に出てくる「倉庫」「宮室」「物見やぐら」「柵」の4点が揃って発見されている遺跡は、「吉野ヶ里遺跡」だけだという。つまり、「邪馬台国」が「吉野ヶ里」にあった
可能性は高いということであり、もしかすると、この土の下に「邪馬台国」が眠っているかもしれない等と考えながら「吉野ヶ里」を歩くのもロマンというものであろう。
 私などは、特に古代史ファンでもなく、観光で写真を撮って歩いただけなのだが、自分達の夢を捨ててまで「吉野ヶ里遺跡」の保存に協力した地元の人達、そして遺跡の
発掘と保存に尽力した「七田忠志(父=故人)」と「忠昭(次男)」の父子に敬意を表したい。

  旅の記録(佐賀県)に戻る

  旅の記録に戻る      Donichi’s HomePageに戻る