今帰仁城跡

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2015/4/7(11:12,11:13)
「今帰仁村グスク交流センター」と駐車場。
「今帰仁城(なきじんぐすく)跡」は、国頭郡今帰仁村(なきじんそん)に位置する城跡で、
その昔(14世紀頃)沖縄島北部を「北山(ほくざん)」、中部を「中山(ちゅうざん)」、南部を「南山(なんざん)」と
三大勢力が支配していた「三山鼎立(ていりつ)」の時代に、「北山」の国王が拠点とした城である。
後に、三山統一を果たした「尚巴志(しょうはし)」に滅ぼされるが、敗北後は、北部地域を管理する
監守の居城として利用されたという。
「今帰仁城跡」の入場券は、左の写真赤い屋根の「今帰仁村グスク交流センター」で購入する。
また、交流センターの中には、売店やレストランの他、休憩所があり、世界遺産や「今帰仁城跡」の解説を
映像で紹介している。
右の写真、駐車場の奥に写る建物は「今帰仁村歴史文化センター」で、「今帰仁城跡」から出土した出土品の
展示や今帰仁村の歴史に関する企画展等を行っており、「今帰仁城跡」との共通券で入館することができる。
2015/4/(11:13)
城跡に向かう。
城跡は、「今帰仁村グスク交流センター」や
駐車場からは、道路を隔てた反対側にある。
2015/4/7(11:17)
「外郭」を「平郎門」へと向かう。
写真左に蛇行する石垣に囲まれた空間が「外郭」と呼ばれる。
「外郭」を囲む石垣は、昭和50年(1975)に沖縄海洋博の工事の中で発見され、高さ2m前後で、延長数百メートルに及ぶ。
2015/4/7(11:17)
「舟型の土盛り」。
「外郭」には、舟を模った二つの土盛り(写真右手前に
ある横長の土盛りがその内の一つ)がある。
これは、「レコーラウーニ」と呼ばれる「祭祀場」で、
旧盆明けの亥の日をはさんで、3日間「海神祭
(ウンジャミ)」の祭祀が行われるという。
2015/4/7(11:19)
「炉跡を伴う掘立柱建物跡」。
炉跡は、奥行き約240cm、幅約170cm、深さ約80cm
で、周囲には6本の柱穴が配され、壁や床は火を受け
赤く焼け、炉の最下層からは多くの「炭化種子(イネ、
ムギ、アワ等)」が確認されたという。
2015/4/7(11:20)
「古宇利殿内(フイどぅんち)」。
沖縄の言葉で「古宇利」のことを「フイ」という。
祠は「古宇利島」のある北東の方向を向き、
旧8月には「古宇利島」の人々が遙拝するという。
2015/4/7(11:20)
「大隅を囲む石垣」。
「今帰仁城」の建てられた高台は石山であり、城壁には、周囲にあった重く堅い「古生代石灰岩」を利用しているため、岩盤に隙間がある。
これに対し、「座喜味城」や「中城城」では、「琉球石灰岩」が使われ、柔らかく加工しやすいため、隙間なく積まれているという。
写真は、下の行左の写真を切り抜きパノラマ風にしたものである。
2015/4/7(11:20)
「大隅を囲む石垣」。
2015/4/7(11:22)
「アンモナイトの化石」。
石垣に積まれる「古生代石灰岩」からは、アンモナイトの
化石等も度々発見されるという。
写真をクリックすると4.75倍ズームで撮る
「アンモナイト」の写真(600x450)が表示されます。
2015/4/7(11:24)
「石畳」の発掘作業現場。
「平郎門」の前では、地中から発見された「石畳」の
発掘作業が行われていた。
発掘現場の一部石には識別のための番号札が
貼られている。
写真をクリックすると「発掘作業現場」の
写真(600x450)が表示されます。
2015/4/7(11:24)
「平郎門」。
「平郎門」は、「今帰仁城」の正門で、昭和37年(1962)に
修復されている。
左右に狭間があり、天井は大きな一枚岩を乗せている。
この様子は、11時51分の写真で、帰路裏側から撮る
写真を紹介しています。
2015/4/7(11:26)
「七五三の階段」。
「平郎門」から「大庭」まで続く参堂で、階段が7段、
5段、3段の繰り返しになっている。
戦前、地元の人達によって桜の植栽とともに直線道に
整備されたが、戦後米軍の車両が城内へ登るために
使われ、現在の参道は、昭和34年(1959)、当時の
琉球政府文化財保護委員会が新設したという。
2015/4/7(11:28)
「カーザフ」。
「カーザフ」は、「平郎門」の右側にある窪地で、
両側が切り立った「谷底」になっており、
堀が構築されていない「今帰仁城」において、
天然の堀となっている。
2015/4/7(11:28)
「旧道」。
「七五三の階段」と並行し、現在も「大庭」まで歩くことが
できるため、往路は「旧道」を歩いた。
この道は、大勢の敵兵が一気に攻め込まないように、
大きな岩盤の谷間を利用して道幅を狭くしているという。
2015/4/7(11:30)
「大庭(ウーミャ)」。
当時は、正殿(主郭)、北殿、南殿に囲まれ、
政治・宗教の重要儀式が行われた場所であったと
考えられるという。
2015/4/7(11:30)
「志慶真乙樽」の歌碑。
「志慶真乙樽(シゲマウトゥダル)」は、「今帰仁城」の
後ろにある「志慶真ムラ」に住んでいた美女で、
「今帰仁城」の王様に召し寄せられ、王様の世話をした
という。
歌碑には、世継ぎ誕生を喜ぶ「志慶真乙樽」をうたった
琉歌が刻まれる。
2015/4/7(11:32)
「ソイツギ(場内下之御嶽)」。
城内に2つある「最も聖なる場所」の1つ。
旧暦8月の「グスクウイミ」という祭祀の時、
「五穀豊穣」等を祈願するという。
2015/4/7(11:33)
「御内原(うーちばる)」。
かつては「女官部屋」があり、城内でも崇高な場所と
された場所である。
広場の北側からは、城内で最も優れるといわれる
眺望を楽しむことができる。
2015/4/7(11:33)
「御内原」から見る「古宇利島」。
写真は、2.75倍ズームにて撮影。
写真をクリックすると拡大写真(600x450)が
表示されます。
2015/4/7(11:34)
「御内原」から見る眺望。
写真、左下に「大隅」、右には「古宇利島」が写る。
「大隅」は、「七五三の階段」から「大庭」に向かって歩くと左下にあり、城内でも最も高い石垣に囲まれた広い郭(くるわ)で、
大量の馬の骨が発掘されたことから、「城兵達の武闘訓練の場」であったといわれている。
2015/4/7(11:35)
「テンチジアマチジ(場内上之御嶽)」。
城内に2つある「最も聖なる場所」の1つ。
男子禁制の御嶽で、城内の女官によって子孫繁栄、
国家安泰、五穀豊穣を祈願したという。
2015/4/7(11:36)
「主郭(本丸)」。
「主郭(本丸)」には、多くの礎石が残り、かつての
建物の形が想像できるという。
発掘調査では、13世紀終わりから17世紀初め頃まで
機能していたことがわかり、監守引き上げ以降は、
「火神の祠」や「来歴碑」が建立され祭祀を行う場所
として利用されている。
2015/4/7(11:37)
「主郭(本丸)」の展望台。
2015/4/7(11:37)
「主郭(本丸)」の展望台から見る「志慶真門郭」。
「主郭(本丸)」を取り巻く石垣の下に、
「志慶真門郭」が見える。
写真をクリックすると拡大写真(600x450)が
表示されます。
2015/4/7(11:38)
「火神の祠」と「山北今帰仁城監守来歴碑記」。
「火神の祠(ひのかんのほこら)」には、第二監守一族の
「火神」が奉られ、現在でも、旧暦の8月10日には、
「城ウイミ」の祭祀が行われている。
「山北今帰仁城監守来歴碑記(さんほくなきじんじょう
かんしゅらいれきひき)」は、乾隆14年(1749)に、
「今帰仁王子朝忠(今帰仁按司十世宣謨)」によって
立てられ、監守派遣の経緯等が刻まれている。
この石碑は保存のため、今帰仁村歴史文化センターに
保管展示されており、「今帰仁城跡」との共通券で
見ることができる。
2015/4/7(11:40)
「主郭」から「志慶真門郭」に向かう門。
2015/4/7(11:40)
「主郭」から「志慶真門郭」に向かう階段。
「志慶真門郭(しじまじょうかく)」は、「今帰仁城跡」
南側の、「主郭」より一段下がったところにある。
城の裏門にあたるため、戦略上重要な場所で
あったという。
なお、現地の案内板には読み方に「しげまじょうかく」と
書かれていたが、英語表記では「Shijimajokaku Ward」と
あり、沖縄の方言では「しじまじょうかく」と読むという。
写真をクリックすると拡大写真(600x450)が
表示されます。
2015/4/7(11:41)
階段途中から見る「志慶真門郭」。
「志慶真川」に沿って築かれた城壁は、原形に近い形で
残り、4つの住居跡には炉跡もあったという。
2015/4/7(11:42)
下に降りて見る「志慶真門郭」。
「志慶真門郭」で発見された4つの住居跡からは、
武具に混じって装飾品や子供用遊具等も出土しており、
ここには、子供を含めた「家族単位」での生活が
営まれていたことが考えられるという。
2015/4/7(11:44)
「主郭」に戻る。
2015/4/7(11:45)
案内板には「帰路」と書かれ、帰りは「主郭」から
直接「大庭」へと降りる。
2015/4/7(11:46)
「カラウカー」。
「大庭」の東南側にあり、常に水を湛え、女官が髪を
洗ったり、水量で吉凶を占ったと伝わる。
2015/4/7(11:48)
「七五三の階段」。
帰りは「旧道」ではなく、「七五三の階段」を歩いた。
2015/4/7(11:51)
裏から見る「平郎門」。
左右の狭間や、天井に一枚岩を乗せる様子が分かる。
写真をクリックすると拡大写真(600x450)が
表示されます。
2015/4/7(11:51)
「平郎門」を出たところで見る「大隅」の石垣。
雄大な屏風型の曲線を描く石垣の姿が印象に残る
城であった。
写真をクリックすると拡大写真(600x450)が
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