喜屋武岬
(平和の塔)

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2015/4/9(9:48,9:48)
「喜屋武岬園地」の標識と「平和の塔」。
「喜屋武(きやん)岬」は、一般に沖縄本島最南端として知られるが、実際の最南端は、
東南東に約1.4km離れた「荒崎」である。
これは、「荒崎」の先端には、雑木林が繁茂する草道を分けて入るしかなく、
一般の人が行ける最南端の地は「喜屋武岬」となるからであろう。
また、「喜屋武岬」は、「沖縄戦跡国定公園」に指定され、慰霊碑「平和の塔」が立つ他、
「喜屋武岬園地」として展望台やトイレが整備され、近くには「喜屋武崎灯台」もある。
右の写真をクリックすると「平和の塔」の案内板(800x600)が表示されます。
2015/4/9(9:49)
「喜屋武岬園地」から見る「荒崎」。
ここ「喜屋武岬」から「荒崎」にかけての一帯は、
沖縄戦末期に、数万人の日本兵や住民が最期を
遂げた地であり、荒崎の東側「荒崎海岸」にある、
「ひめゆり学徒隊」の先生と生徒たちが集団自決を
図った場所には、慰霊碑が建立されているという。
写真をクリックすると拡大写真(600x450)が
表示されます。
2015/4/9(9:49)
展望台から見る「平和の塔」。
この辺りは、「太平洋」と「東シナ海」の境界であり、
写真中央より左が「太平洋」。右が「東シナ海」となる。
「平和の塔」が建つ場所は、切り立った崖の上にあり、
米軍の攻撃から逃げ場を失った日本兵や住民達は、
この岬から身を投げ自決し最期を遂げたという。
「平和の塔」は、昭和27年(1952)、地元住民たちが、
部落内や周辺海岸に散在する日本兵や住民の
遺骨1万余柱を収集して、「名城ビーチ」に合祀、
「平和の塔」を設立したのが始まりで、
昭和44年(1969)、この地に改修移転したという。
2015/4/9(9:50)
「喜屋武崎灯台」。
元は、米軍により設置された「荒崎灯台」が
現在の場所より東側に立っていたのだが、
光量が弱かったため、昭和47年(1972)に、
平均海面から灯火までの高さ47m、
光達距離約34kmという現在の灯台が
立てられたという。
2015/4/9(9:50)
「喜屋武岬園地」の展望台。

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