奥集落の亀甲墓

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2015/4/6(11:12,11:08)
「奥橋」と奥橋の対岸に見る「亀甲墓」。
「奥集落の亀甲墓」は、国頭郡国頭村の奥集落にあり、「奥川」が海に注ぐ河口近くの右岸にある。
「奥橋」は、鹿児島県鹿児島市から、はるばる海や島を経て、沖縄県那覇市までの総延長877.9km
(海上区間609.5km)に及ぶ国道58号線の沖縄本島の起点であり、ここで沖縄本島に上陸した国道58号線は、
北端の「辺戸地区」までを北上。その後は、沖縄本島の西側を那覇市へと南下する。
「亀甲墓(きっこうばか)」は、琉球王国時代には「破風墓」と共に、士族のみに許された墓であったが、
廃藩置県以後、庶民の間でも急速に普及したもので、戦後は火葬の普及に伴い、小型の「家形墓」が
多くなっているが、沖縄では本土にあるような「塔式墓(四角柱形の石の墓)」は、ほとんど見かけない。
右の写真をクリックすると墓地右端の部分を切り抜いた画像(600x450)が表示されます。
2015/4/6(11:08)
「奥橋」から2倍ズームで撮る「亀甲墓」。
「亀甲墓」の形は、女性の子宮を模したともいわれ、
墓の入口が、産道に当たる。
これは、人は母の胎内から生まれ、死ぬと再び母体に
帰るという「母体回帰」の思想からくるものだという。
写真をクリックすると中央左部分を切り抜いた
画像(600x450)が表示されます。
2015/4/6(11:10,11:10,11:10)
色々な角度で撮る「奥集落の亀甲墓」。
「火葬」が普及する前の沖縄では、遺体を納めた棺を、「亀甲墓」の墓室内入口付近に3~7年間置くことで、「風葬(一次葬)」にした。
その後、洗骨した骨を「厨子甕(ずしがめ)」に納め墓室奥の棚に「安置(二次葬)」したという。
また、沖縄では「個人墓」というのはほとんどなく、「家族墓」か「門中(一族)墓」が多く、複数の「厨子瓶」を収納するスペースが必要である。
このため、墓室内部には4~8畳ほどの広さがあり、「亀甲墓」の制作費は、小さいものでも100~200万円。
大きなものになると1,000万円を越えるという。
墓室の前に設けられた「墓庭」は、一族が集まったときなどに左右に分かれて座り、食事をしたりするスペースとして使われるという。
写真は3枚共、クリックすると拡大写真(600x450)が表示されます。

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