勝連城跡

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2015/4/8(12:25,11:53)
「勝連城跡」の案内板と模型。
「勝連(かつれん)城跡」は、沖縄本島の中部東海岸から太平洋に突き出る「勝連半島」の
ほぼ付け根の「うるま市勝連」にあり、15世紀、海外貿易により「勝連」に繁栄をもたらした
10代目の按司(あじ:日本本土の宮家に相当し、その地方の支配者)」で、当時の琉球では、
「麒麟児」とも評された、「阿麻和利(あまわり)」が居城とした。
自然の丘陵の高低差を利用して築かれた城壁は優雅な曲線を描き、標高約100mにある
「一の曲輪(くるわ)」からの景観にも優れる。
なお、城跡への入場は無料で、沖縄県道16号線を渡ったところに、大型車5台と普通車40台が
止められる無料駐車場と、観光案内所、特産品の店を兼ねた休憩所がある。
左の写真をクリックすると「勝連城跡の立地」の案内板が表示されます。
この案内板は、800x800ピクセルあります。
案内板の文字を読みたいときには、表示された画像をクリックし、スクロールバーをご利用下さい。
右の写真をクリックすると近づいて撮る「勝連城跡の模型」が表示(600x450)されます。
2015/4/8(11:54)
「勝連城跡」入口。
写真をクリックすると「勝連城跡」の城内地図が
表示されます。
この城内地図は、1,200x900ピクセルあります。
城内地図の文字を読みたいときには、表示された画像を
クリックし、スクロールバーをご利用下さい。
2015/4/8(11:55)
「防御田地」。
「勝連城跡」入口から「四の曲輪」の間は、かつては、
「底なしの沼」と言われるほど、水量豊富な湿地帯で、
敵軍に対しては、足場の悪い「防御ライン」として、
また、平時には農地として活用されたという。
2015/4/8(11:57)
「勝連城」北側の石積み。
自然の地形を巧みに利用した「勝連城」石積みは、
そのほとんどが四角い切石を水平に積み上げた
「布積み」だという。
2015/4/8(11:57)
「門口のカー」。
「カー」は、沖縄の方言で井戸や湧水のことで、
「四の曲輪」には、5つの泉があり、「門口(じょうぐち)の
カー」は、「西原御門(にしはらうじょう)」から城内へ入る
訪問者が手足を清めるために使用していたという。
2015/4/8(11:58,11:58)
「四の曲輪」から見る「右旋回の階段」。
「勝連城」の石階段は、急勾配で城壁に沿うように右側から旋回して上る構造になっている。
これは、侵入者の体力を消耗させ、右手側城壁より攻撃を加えることで、敵軍の機動力と
攻撃力を弱めるための工夫だという。
右の写真をクリックすると拡大写真(600x450)が表示されます。
2015/4/8(11:59)
「仲間ヌウカー(カンジャガー)」。
この地域の「鍛冶屋(カンジャー)」であった「仲間家」が
使用していた泉だという。
2015/4/8(12:00)
「マチダ・ナケージガー」。
王府編纂の地誌「琉球国由来記」に記載される、
「マチダの御嶽」「ナケージの御嶽」に縁起を持つ
「御嶽(うたき:琉球の信仰における祭祀等を行う
施設)」で、現在も地域の信仰の対象となっている
祈りの場だという。
2015/4/8(12:01)
「ウタミシガー」。
旧暦元旦の「初拝(はつうがみ)」の際に、この泉の
水量によって一年の豊作・凶作を占うという。
2015/4/8(12:02)
「ミートゥガー」。
女性が自由な行動を制限された時代でも、水汲みは
若者の仕事であり、外出の口実になったという。
かつては、この泉が「男女の逢瀬の場」であった
という伝説から「ミートゥガー(縁結びの泉)」と
呼ばれるようになったという。
2015/4/8(12:02,12:03)
「右旋回の階段」を登る。
登り詰めたところが「三の曲輪城門(四脚門)」である。
左の写真をクリックすると拡大写真(600x450)が表示されます。
2015/4/8(12:03)
「三の曲輪城門(四脚門)」近くで見る南方向の景色。
下には「四の曲輪」と「南風原(はえばる)御門」が
見えている。
海外貿易によりに繁栄した「勝連城」では、
現在の駐車場に近い「西原御門」は、裏門であり、
「南原漁港」に近い「南風原御門」が正門で
あったという。
2015/4/8(12:03,12:04)
「三の曲輪城門(四脚門)」。
「三の曲輪城門」の発掘調査により、礎石と壁に4ヶ所のくぼみが確認されたことから、
ここには、四本の柱で屋根を支える「四脚門(薬医門)」が立っていたと考えられるという。
2015/4/8(12:05)
「三の曲輪」の石積。
写真右に写る階段を登ったところが「二の曲輪」。
その奥に見える石積みの上が「一の曲輪」である。
2015/4/8(12:05)
「二の曲輪基壇」。
「基壇(きだん)」とは、建物の基礎になる石や土で
一段高く築いた場所のことで、「二の曲輪」と「三の曲輪」
の境には、石灰岩切石積みで、南北約41mにわたり、
ほぼ一直線に「基壇」が造られている。
2015/4/8(12:06)
「二の曲輪」。
「二の曲輪」では、正面約17m、奥行き約14.5mの
「舎殿跡」が発見されている。また、周辺からは
当時貴重であった「大和系瓦」も発見されることから、
ここにあった「舎殿」は、政治上最も重要な建物で、
一部「瓦葺屋根」の建物であった可能性があるという。
2015/4/8(12:07)
「ウミチムン(火の神)」。
沖縄の家庭では、台所に「火の神」を祀り、家内安全を
願う風習が、現在も残るという。
2015/4/8(12:07)
「ウシヌジガマ」。
「ガマ」は、沖縄の方言で「洞穴」であり、この洞穴は、
「一の曲輪」の洞穴に繋がり、「首里王府軍」によって
攻め入られた時に、城主「阿麻和利」は、ここを抜けて
現在の「読谷村」まで逃げ延びたという伝説が残る
という。
写真をクリックすると近づいて撮る「ウシヌジガマ」が
表示(600x450)されます。
2015/4/8(12:08)
「一の曲輪階段」。
「一の曲輪階段」の上部は、歩きづらい岩の道の
先に石段が続く。
2015/4/8(12:09)
「一の曲輪」。
「一の曲輪」からは、海外交易により得られた
質の良い品々が出土しており、ここには「宝物殿」の
ような建物があったと考えられるという。
2015/4/8(12:10)
「一の曲輪」から見る西方向の景色。
南(写真左)の方向には「知念半島」。北(写真右)には、「金武湾」を囲む沖縄本島北部の山々を望み、
南西の方向には、宿敵「護佐丸(ごさまる)」の居城「中城(なかぐすく)城」を望むことができる。
2015/4/8(12:11)
「一の曲輪」から見る東方向の景色。
ほぼ東(写真中央左)の方向には、「平安座島(へんざじま)」と「浜比嘉島(はまひがじま)」。
中央右の小高い山は、「与勝病院」が建つ辺りかと思うのだが、確認が取れない。
写真右には、沖縄本島(沖縄市)の東沖に築かれた「防波堤」が写る。
2015/4/8(12:09)
「玉ノミウヂ御嶽」。
「一の曲輪」のほぼ中央にあり、「勝連」を守護する
大きな霊石をご神体とする「御嶽(うたき)」だという。
2015/4/8(12:13)
「一の曲輪」から見下ろす「二の曲輪」と「三の曲輪」。
「二の曲輪」には、復元された舎殿の「礎石跡」。
「二の曲輪」の下には、広大な「三の曲輪」が写る。
写真をクリックすると拡大写真(600x450)が
表示されます。
2015/4/8(12:14)
「一の曲輪」から「二の曲輪」へと降りる。
「一の曲輪」に近い上段は、歩きづらい岩の道だが、
「二の曲輪」に近い下段は、木道風の道になっている。
写真では分からないが、正面奥には、「海中道路」や
「浜比嘉大橋」が見える。
2015/4/8(12:15)
「二の曲輪」に復元された舎殿の「礎石跡」。
2015/4/8(12:15)
「二の曲輪」から見る「三の曲輪」。
「三の曲輪」は広く、この写真に写るのは、
「三の曲輪」の南側部分だけである。
2015/4/8(12:16)
「神人の腰掛け(トゥヌムゥトゥ)」。
「肝高の御嶽」の横にあり、この「石列(トゥヌムゥトゥ)」
は、祭祀(ウマチー)の時に「神人(かみんちゅ)」たちが
腰掛けたりするという。
2015/4/8(12:17)
「肝高の御嶽」。
「三の曲輪」の広場にある。
「肝高(きむたか)の御嶽(うたき)」は、王国時代から
続き、「女性祭司(神人)」を中心に初穂や豊作を祈る
「ウマチー」という年中行事が行われる
「拝所(うがんじゅ)」だという。
2015/4/8(12:18)
「三の曲輪」から見る「舎殿跡」。
「三の曲輪」の広場は、「舎殿」の前庭に位置し、
石段上の「舎殿」の前に立つ「按司」が「三の曲輪」の
広場に並んだ配下の者たちに様々な指示を出したり、
政治的な儀式などが行われていたと考えられるという。
2015/4/8(12:18)
「右旋回の階段」を降りる。
階段を降りたところが「四の曲輪」。
写真中央上に写る赤い屋根の建物が、「休憩所」で、
「休憩所」の左側に駐車場がある。
写真をクリックすると拡大写真(600x450)が
表示されます。

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