旧海軍司令部壕

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2015/4/10(15:44,15:45)
「海軍壕公園ビジターセンター」と「海軍戦没者慰霊之塔」。
「旧海軍司令部壕」は、那覇市の南西、豊見城の小高い丘にある。
所在地は、豊見城市なのだが、那覇市との境界に位置しており、壕や建物は両市を跨がっているようである。
壕は、昭和19年(1944)に「日本海軍設営隊(山根部隊)」によって掘られ、長さ450mの壕には、
当時4,000人の兵士が収容されていたという。
昭和20年6月、米軍の攻撃により司令部は孤立するも、「大田司令官」は、司令部の死守を決意するが、
6月6日には、「海軍次官」宛に沖縄県民の献身的作戦協力を訴える「沖縄県民斯ク戦ヘリ」の電文を打ち、
その1週間後の13日、司令官以下幕僚5名が自決した壕である。
壕参観の入口は、「海軍壕公園ビジターセンター」の2階にある。
「海軍戦没者慰霊之塔」は、昭和33年(1958)、「沖縄海友会」等により建立された。
右の写真をクリックすると近くで撮る「海軍戦没者慰霊之塔」が表示(450x600)されます。
2015/4/10(15:45)
「仁愛之碑」。
この碑は、「海軍戦没者慰霊之塔」の前に立ち、
碑文には、「大田實司令官」が「海軍次官」に宛てた
電文が刻まれている。
写真をクリックすると「仁愛之碑」の碑文(960x720)が
表示されます。
なお、16時9分の写真では、この電文の現代文を
紹介しています。
2015/4/10(15:46)
「旧海軍司令部壕の碑」。
2015/4/10(15:47)
「海軍壕公園ビジターセンター」の2階部分。
「旧海軍司令部壕」の参観入口である。
2015/4/10(15:47)
「海軍壕公園ビジターセンター」の2階。
2階は入口のみで、参観受付は1階にある。
2015/4/10(15:49)
「資料館入口」。
「海軍壕公園ビジターセンター」1階に降り、
受付を済ませ、資料館に入る。
資料館の入口には、大日本帝国海軍が建造した
史上最大の戦艦といわれる「大和」の模型が
展示されている。
2015/4/10(15:50,15:51)
「資料館」の中。
入口を入ると、「被害の全容」というパネルの張られたコーナーには、「日米被害比較」等の数字が並ぶが、
パネルの上に小さな文字で書かれる文章は、沖縄県民の気持ちが現れていると思うので、少々長いが、
ここに全文を紹介する。
 沖縄戦の戦死者数はまだ不明である。軍人の戦死者数はほぼ正確であるが、沖縄県民の犠牲者数は
推定でしかない。約15万人前後と推測されるが、これは日米両軍の正規軍人の2倍以上にのぼり、
戦前の県人口約60万人の1/4にあたる。
 戦争犠牲は人命だけではない。地上の文化財の9割以上が失われ、戸籍や地籍簿も消滅したため
戦後の混乱がながく続いた。なによりも地獄の戦場で傷ついた沖縄県民の心の傷跡はいつまでも
消えることはない。
2015/4/10(15:52)
「資料館の展示物」。
ここからは、資料館の展示物を紹介する
写真は、日本軍の軍服と銃器、手製の槍。
2015/4/10(15:54)
沖縄戦の経過を紹介する写真やパネル。
2015/4/10(15:54)
「住民の苦しみ 証言で綴る被害の実際」とあり、
沖縄戦を経験した住民たちの証言を綴った冊子等が
展示されている。
2015/4/10(15:55)
旧日本海軍関係の遺留品。
県内遺骨収集ボランティアにより収集された品が
展示されている。
2015/4/10(15:56)
南西諸島電文綴り(当時の通信記録)。
2015/4/10(15:57)
「大田實司令官」を紹介するコーナー。
2015/4/10(15:57)
「旧海軍司令部壕」で発見された遺品。
2015/4/10(15:58)
大田司令官の「少将旗」。
沖縄戦終結後に壕内から発見され、米海兵隊少佐が
本国に持ち帰っていたが、平成24年(2012)、
67年ぶりに遺族の元に返還されたとある。
2015/4/10(16:00)
「旧海軍司令部壕」入口の階段。
階段は、105段あり、長さは約30mある。
この先は、縦横に張り巡らされた「壕」の中を紹介する。
写真をクリックすると「壕内見取図及び順路」が
表示(960x720)されます。
2015/4/10(16:02)
「信号室」。
この部屋からモールス信号などにより、部隊同士の
連絡を取っていたという。
2015/4/10(16:03)
「作戦室」。
作戦を練るための重要な場所であったため、部屋を
コンクリートや漆喰で固めた当時の様子を残している。
写真をクリックすると、当時の「作戦室」の様子を
描いた画像が表示されます。
この画像は、600x800ピクセルあります。
画像の詳細を見たいときには、表示された画像を
クリックし、スクロールバーをご利用下さい。
2015/4/10(16:04)
狭い通路。
順路を外れたわけではない。
壕内でもメインとなる通路の幅は、広いのだが、
メイン通路から一歩外れると狭く、進んでいる方向すら
分からなくなってしまう。
2015/4/10(16:04)
「幕僚室」。
正面の壁の傷は、幕僚たちが手榴弾で自決したときの
破片跡とある。
写真をクリックすると「手榴弾の破片跡」の部分を
切り抜いた画像(600x450)が表示されます。
2015/4/10(16:05)
「幕僚室」を出て、一旦は広い通路に出るが、
すぐに「暗号室」への狭い通路に入る。
2015/4/10(16:06)
「暗号室」への通路。
2015/4/10(16:06)
「暗号室」。
部隊同士の連絡を取るための電文を暗号化したり
解読したりする部屋であったという。
2015/4/10(16:07)
「医療室」。
ここが初めから「医療室」であったかどうかは不明だが、
生存者の話では、ここを中心に沢山の負傷兵がいたと
いうことから、「医療室」だと推定されるとある。
2015/4/10(16:09)
「大田司令官」が「海軍次官」に宛てた電文(現代文)。
写真をクリックすると「大田司令官の電文(現代文)」が
表示されます。
この画像は、1,200x600ピクセルあります。
電文の内容を読むときには、表示された画像を
クリックし、スクロールバーをご利用下さい。
2015/4/10(16:09,16:09)
当時の「発電機台(左)」と「発電室(右)」。
壕内には、それぞれ5㎡の広さの「発電室」が、3ヶ所あったという。
2015/4/10(16:10)
壕を掘るのに使われた「つるはし」。
壕は、すべて兵士たちの「つるはし」や「くわ」によって
造られたとある。
写真をクリックすると「壕掘り作業」の様子を描いた
画像(800x600)が表示されます。
2015/4/10(16:10)
壕には、「つるはし」や「くわ」の跡が残る。
2015/4/10(16:11)
壁には、当時の配電用碍子(がいし)が残る。
写真をクリックすると「当時の配電用碍子」の部分を
切り抜いた画像(600x450)が表示されます。
2015/4/10(16:12)
「下士官室」。
玉砕の近い6月頃には、この部屋に、立錐の余地も
ない程の兵士たちが入り、立ったままで睡眠や休息を
とったとある。
2015/4/10(16:14)
当時の「出口」。
兵士たちは、武器らしいものも持たずに、この出口から
出撃。大半の兵士は戻ってこなかったとある。
2015/4/10(16:14)
当時の「炊事場」への通路。
2015/4/10(16:16)
「司令官室」。
部屋は当時の状態が、そのまま保存されており、
写真奥の壁には、「大君の御はたのもとに死してこそ
人と生まれし甲斐ぞありけり」という「大田司令官」の
「辞世の句」が残されている。
写真をクリックすると「大田司令官」の「辞世の句」が
表示(450x600)されます。
2015/4/10(16:20)
「出口」に向かう。
2015/4/10(16:23)
「壕出口」。
2015/4/10(16:23)
「出口」を出たところ。
入った場所とは違うところに出る。

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