出島

この下にある「プルダウンメニュー」が表示されない場合は、ページ最下行にあるハイパーリンクをご利用下さい。





2013/10/2(11:40,12:36)
「出島(水門)」。
扇の形で知られる「出島」は、寛永11年(1634)江戸幕府がポルトガル人を管理する目的で、長崎に造られた
人工の島で、鎖国時代の約200年間、日本で唯一西洋に開かれていた貿易の窓口であった。
大正11年(1922)には「出島和蘭商館跡」として国の史跡に指定される。その後、長崎市は「出島」の復元に着手。
当時と同じ場所に江戸時代の建物を復元。明治時代の建物は一部修復する等の整備を行い、公開されている。
写真は、「出島」の西側メインゲート脇にある「水門(左)」と「水門の役人待機処(右)」。
「水門」は、輸出入品が出入りする重要な門であり、人が出入りする表門よりも厳重に管理されていたという。
2013/10/2(11:41)
西側ゲート(料金所)から見る「メイン通り」。
「出島」の西側には「19世紀初頭の建物」が
復元されている。
2013/10/2(11:43)
「一番船船頭部屋」。
オランダ船の船長の宿泊所や商館員の住まいとして
使われた建物で、1階が倉庫、2階が居室になっている。
写真をクリックすると「一番船船頭部屋」のページが
表示されます。
2013/10/2(11:47)
「長崎はいからさん(和装レンタル)」。
「出島」の街並みを、当時の着物を着て散策することも
できる。
2013/10/2(11:48)
「一番蔵」。
一番から三番まで、3つ並ぶ「蔵」の中では、
「出島」復元工事の過程や当時の貿易品などが
展示・紹介されている。
写真をクリックすると「蔵」のページが表示されます。
2013/10/2(11:56)
「拝礼筆者欄人部屋(蘭学館)」の中。
帳簿などの筆記を行うオランダ人の主席事務員が
住んだという建物の中では、「出島」から入ってきた
「蘭学」が紹介されている。
写真をクリックすると「拝礼筆者欄人部屋」のページが
表示されます。
2013/10/2(11:58)
「新石倉(出島シアター)」。
中では、「出島」のガイダンスとして「阿蘭陀通詞の
出島案内」が上映されている。
2013/10/2(11:59)
「表門」。
江戸町側から表門橋を渡った、「出島」の玄関口にあり、
探番(さぐりばん)が出入りする人を改めていたという。
2013/10/2(12:01)
「旧石倉(考古館)」。
国産の陶磁器が出土していることから、輸出品の
倉庫であったと考えられている。
写真をクリックすると「旧石倉(考古館)」のページが
表示されます。
2013/10/2(12:07)
「陶製の門柱」。
柱には「ペトゥルス・レグゥー窯」のマークが刻まれて
おり、「ペトゥルス・レグゥー窯」の製品は、当時阿蘭陀
(オランダ)趣味の大名や藩主、商人などが「出島」を
介して入手していたという。
2013/10/2(12:07)
「キャピタン橋」と「葡萄棚」。
寛政10年(1798)の大火前後に描かれた「出島」の
絵図を元に造られたもので、絵図では、橋の下の
用水池の水を菜園にまく様子や葡萄棚の上に造られた
「涼み処」が描かれているという。
2013/10/2(12:08)
「キャピタン橋」と用水池。
2013/10/2(12:09)
「旧長崎内外クラブ」。
明治36年(1903)、長崎に在留する外国人と日本人の
親交の場として建てられたという。
1階をレストラン。2階は、居留地時代の展示場として
使われている。
2013/10/2(12:09)
「居留地時代の地番境石」。
石の標柱には、居留地時代の「出島」の地番が刻まれ、
敷地の東側から中央部にかけて、7ヶ所に残るとある。
写真をクリックすると「地番境石」の部分を切り抜いた
画像(450x600)が表示されます。
2013/10/2(12:10)
「旧出島神学校」。
明治11年(1878)に建てられ、日本に現存する最古の
キリスト教神学校という。
1階が売店、休憩所。2階が「年間パスポート購入者」
専用の施設(会議室、図書館等)として使われている。
2013/10/2(12:13)
「フレンドシップメモリー」。
日本とポルトガルの交流に尽力した6人の人物を題材に
した彫刻である。
昭和45年(1970)の大阪万博に展示されていたが、
博覧会終了後にポルトガル政府から長崎県に寄贈され
たという。
写真をクリックすると拡大写真(600x450)が
表示されます。
2013/10/2(12:14)
「ミニ出島」。
文政3年(1820)頃に、「シーボルト」から写実的西洋画法
を学んだ「川原慶賀」が描いた、出島オランダ屋敷
「長崎出島之図」を元に、実物の1/15の縮尺で
製作したという。
写真をクリックすると「ミニ出島」のページが
表示されます。
2013/10/2(12:16)
「シーボルト里帰り植物」。
商館医であった「シーボルト」が来日中にオランダに
送り、現在も「ライデン大学付属植物園」で生育している
ものの中から一部を「出島」に里帰りさせ、ここに植えた
という。
2013/10/2(12:16)
「石造日時計(複製)」。
明和3~4年(1766~1767)、当時の商館長「ヘルマン・
クリスティアン・カステンス」が花園に設置したものを
複製したとある。
2013/10/2(12:17)
「鉄製大砲」。
元は、オランダ船に搭載されていたもので、昭和39年
(1964)に、浦上川河口付近から引き揚げられたとある。
2013/10/2(12:19)
「ケンペル・ツュンベリー記念碑」。
商館医「シーボルト」が、同じく商館医として来日し、
日本の研究を行った「ケンペル」と「ツュンベリー」2人の
偉業を顕彰し、文政9年(1826)に建立したという。
2013/10/2(12:24)
「用水池」。
寛政10年(1798)、「出島」の西側半分を焼失する
大火により、オランダ商館は大打撃を受ける。
その後、火災に備え、間口1間半×4間(約2.7m×
7.2m)の「用水池」が設けられたという。
2013/10/2(12:25)
「時鐘」。
紐を引いて鳴らす西洋式の鐘で、正午の昼食時と、
貿易時の朝、積載品が降ろされる時に撞かれたとある。
写真をクリックすると拡大写真(450x600)が
表示されます。
2013/10/2(12:25)
「カピタン部屋」。
日本では、商館長のことを「カピタン」と呼んだという。
つまり、オランダ商館長が住んでいた建物であり、
商館事務所や日本の役人、大名等のお客を接待する
場としても使われたという。
写真をクリックすると「カピタン部屋」のページが
表示されます。
2013/10/2(12:30)
正面は、西側から見る「カピタン部屋」、
右は、「料理部屋」。
2013/10/2(12:31)
「水溜」。
「料理部屋」で使う水を蓄えたとある。
生活用水は、外から竹桶(たけどい)で導き、
飲み水は水売りから買っていたという。
2013/10/2(12:31)
「料理部屋」の中。
商館員たちは、昼と夕方の2回、「カピタン部屋」に
集まって食事を採るのが習慣であった。
「料理部屋」は、その料理を作ったとある。
「出島」へ出入りしていた通詞や役人達は、この珍しい
西洋料理を、お土産として持ち帰り大変喜んだという。
2013/10/2(12:32)
「ブロンズ製12ポンド砲」。
昭和29年(1954)、浦上河口付近で発見され、
オランダ船に搭載されていたと考えられるという。
2013/10/2(12:32)
「乙名部屋」の中。
「乙名部屋」は、長崎の有力町人から選任され、
日本側の貿易事務や管理を一手に担っていた
「出島乙名」が拠点とした場所という。
2013/10/2(12:34,12:34)
「出島」のメイン通り。
左に「一番船船頭部屋」、右に「ヘトル部屋」。
「ヘトル部屋」は、商館長次席(ヘトル)の住居で、
1階が、ミュージアムショップ、2階は、研修・学習室
として使われている。
2013/10/2(12:34)
「出島」のメイン通り。
左に「二番蔵」、右に「ヘトル部屋(手前)」と
「カピタン部屋(奥)」。
当時の服装をした「ボランティアガイド」の姿も写る。
2013/10/2(12:34)
「天秤量り(複製)」。
輸入品の砂糖などを計量したという。
船の着く「水門」近くに置かれていた。

 長崎市内に戻る       旅の記録(長崎県)に戻る

  旅の記録に戻る      Donichi’s HomePageに戻る