知覧武家屋敷群

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2011/6/1(9:09,9:09)
「武家屋敷群」の石碑と、「重要伝統的建造物群保存地区」の説明板。
江戸時代、薩摩藩は領地を外城と呼ばれる113の地区に分けたという。知覧もその外城の一つで、
屈折する道沿いに石垣と生け垣を連ね、庭園化された美しい町並みは、「薩摩の小京都」とも呼ばれ、
昭和56年、国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されている。

2011/6/1(9:12)
「武家屋敷群」の西側入口に立つ「銀杏」の木。
この「銀杏」は、参勤交代の帰途、柳やかえでと
共に京都から持ち帰ったもので、家臣らは、
この銀杏を仰ぎながら京の文化に思いをはせたと
いう。

2011/6/1(9:12)
「武家屋敷庭園案内図」。
「武家屋敷庭園」は、「武家屋敷群」の中を
東西に通る、「本馬場通り(武家屋敷通り)」
沿いに、一般公開されている7つの庭園を見る
ことができる。
写真をクリックすると、「武家屋敷庭園案内図」
が、拡大表示されます。この案内図は、1200x830
ピクセルあります。案内図の文字を読みたいとき
には、画像をクリックし、スクロールバーを
ご利用下さい。
2011/6/1(9:13)
「本馬場通り(武家屋敷通り)」。
石垣と生け垣の景観は、約700mに渡って
続き、通りの左右には、一般公開されている
7つの庭園と一般の民家とが混在する。
一般公開されている個々の庭園の入口にも、
受付はなく人も立っていないが、そこには必ず
看板が立てられている。
立看板のない家は、公開されていない一般民家
であり、観光客は立入禁止である。
また、公開されている庭園の中には、現在でも
家人が生活されている家もあるので、迷惑の
掛からぬようにしたい。
2011/6/1(9:16)
「西郷恵一郎邸」の門。
「本馬場通り(武家屋敷通り)」を西から東方向
に歩くと、一番最初の庭園である。
2011/6/1(9:16)
「西郷恵一郎邸」の庭園。
江戸末期文化文政時代(1804~1829)の作庭。
庭の南東部に積まれた石組み(写真左に写る)は
「鶴」と「亀」を表すという。
2011/6/1(9:18)
「西郷恵一郎邸」の主屋。
旧主屋は、大正3年の大火災で全焼。
現在の主屋は、大正5年に再建したもの。
2011/6/1(9:18)
「西郷恵一郎邸」に飾られる「鎧兜」。
毎年10月最終日曜日に、「知覧平和公園」で
開催される「小京都ふるさと祭」の武者行列で
使用されるとある。
2011/6/1(9:20)
「西郷恵一郎邸」に飾られる「兜」。
2011/6/1(9:21)
「平山克己邸」の門。
2011/6/1(9:23)
「平山克己邸」の庭園。
明和年間(1764~1771)の作庭。
2011/6/1(9:22)
「平山克己邸」の庭園。
「イヌマキ」の生垣は「母ヶ岳」の分脈をかたどっているという。
2011/6/1(9:23)
「平山克己邸」の主屋。
2011/6/1(9:26)
「平山亮一邸」の門。
2011/6/1(9:27)
「平山亮一邸」の主屋。
2011/6/1(9:28)
「平山亮一邸」の庭園。
天明元年(1781)の作庭。
石組みが一つもないのが特徴で、「イヌマキ」と「サツキ」の大刈込みが素晴らしい。
刈り込みの手前に並ぶ切石は、花や盆栽等を乗せて鑑賞したり、和歌を詠んだりしたものといわれる。
2011/6/1(9:30)
石垣と生け垣の景観が続く。
江戸時代「知覧」の港が、琉球貿易の拠点で
あったことから、琉球の影響を多く受けていると
いう。
正面に見える山が「母ヶ岳:標高517m」。
写真右に写るのが、「平山亮一邸」の庭園にある
「イヌマキ」の大刈込み。
2011/6/1(9:32)
「稽古所跡」の碑。
石垣の上に乗るのが「稽古所跡」の碑。
二才(青二才の二才で、15歳以上の若者)は、
毎晩稽古所に泊まり、6時起床。起きたらすぐに
庭の立ち木打ちをし、夜は灯火を真中にして
四方に机を並べ、勉強に励んだという。
中央付近の白っぽい碑(石)は、沖縄で
よく見られる「魔除けの石碑(石敢當)」の
ようだが、真偽の程は不明。
2011/6/1(9:33)
 「知覧型二ツ家」の入口。
居住用の「オモテ」と台所のある「ナカエ」の
建物が別棟になっている「二ツ家」は、鹿児島
独自のものだが、「知覧型二ツ家」は、二つの
別棟を合体させたもので、知覧大工によって
創作され、知覧独自の建築文化とある。
写真をクリックすると、「知覧型二ッ家」の
説明板が、拡大表示(600x450)されます。
2011/6/1(9:34)
「知覧型二ツ家」。
この建物は、昭和57年に移築。
2011/6/1(9:37)
「佐多美舟邸」の門。
2011/6/1(9:37)
「佐多美舟邸」の主屋。
2011/6/1(9:38)
「佐多美舟邸」の庭園。
宝暦年間(1751~1764)の作庭。
知覧島津氏の本筋にあたり、知覧庭園の中で最も豪華で広い庭園といわれる。
2011/6/1(9:38)
「佐多美舟邸」の庭園。
枯れ滝を造り、築山の上部に石灯。下部の平地に
は各所に巨岩による石組みを設けている。
2011/6/1(9:41)
「佐多民子邸」の門。
2011/6/1(9:42)
「佐多民子邸」の庭園。
寛保・寛延・宝暦(1741~1763)頃の作庭。
2011/6/1(9:43)
「佐多民子邸」の庭園。
この庭の石組みには圧倒されるとよくいわれ、知覧庭園群の中でも巨石奇岩を最も大量に用いているという。
2011/6/1(9:43)
「佐多民子邸」の主屋。
2011/6/1(9:47)
「佐多直忠邸」の門。
2011/6/1(9:49)
「佐多直忠邸」の主屋。
2011/6/1(9:50,9:51)
「佐多直忠邸」の庭園。
寛保年間(1741~1744)の作庭。
庭の一隅に築山を設けて、その中心部に3.5mの立石。下部には多数の石組を配して
枯れ滝としている。
また、梅・イヌマキを主木とし、これを交互に配している手法は、他の庭園では見られないという。
2011/6/1(9:54)
石垣と生け垣の景観は、「本馬場通り(武家屋敷
通り)」の終わりまで続く。
2011/6/1(9:55)
由緒ありそうな建物であるが、詳細不明。
2011/6/1(9:57)
「旧高城家住宅」。
薩摩の郷土料理を食べさせてくれる食事処だが、
食事をしなくても中に入り「知覧型二ツ家」と
庭園を見ることができる。
2011/6/1(9:58)
「旧高城家住宅」。
明治以前に建てられた「知覧型二ツ家」で、
昭和に入り「ナカエ」の部分は失われていたが、
平成6年に復元されたとある。
2011/6/1(10:02)
「旧高城家住宅」の庭園。
2011/6/1(10:01)
「旧高城家住宅」の主屋。
2011/6/1(10:05)
「森重堅邸」の門。
2011/6/1(10:06)
「森重堅邸」の土蔵。
土蔵の屋根は固定せず、シュロで作った縄で
白壁に結んであり、火災等の時には屋根を
取り外し、中のものが蒸されないようにしてある
という。
2011/6/1(10:06)
「森重堅邸」の主屋。
森家の祖先は、代々文人として名高い格式の
高い家柄であり、領主がよく遊びに来ていた
関係から、領主専用の玄関を造ったという。
2011/6/1(10:06)
「森重堅邸」の庭園。
寛保年間(1741~1744)の作庭。
他の6庭園は、全て「枯山水式」であるが、
「森重堅邸」の庭園だけが「池泉式」である。
曲線に富んだ池には、奇岩怪石を用いて近景の
山や半島を表し、対岸には洞窟を表現した
穴石を用いて水の流動を象徴しているという。
2011/6/1(10:34)
「麓橋」。
「武家屋敷群」の西側入口まで戻り撮影。
9時12分撮影の「銀杏」の木のすぐ近くにある。
橋を渡ると、「特攻の母」と慕われた故鳥浜
トメさんゆかりの資料館「ホタル館富屋食堂」、
「麓公園」や知覧の土産物等が並ぶ「ふもと
横町」等がある。

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