旧掛橋和泉邸

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2017/5/11(10:11,10:12)
「吉村虎太郎庄屋屋敷跡」の案内版と「旧掛橋和泉邸」。
「旧掛橋和泉邸」は、雲の上の町とも呼ばれる「梼原(ゆすはら)」の町役場から東に200m程
歩いたところにあり、代々「梼原村」の庄屋屋敷が建ち、後には「旧梼原村役場」の庁舎も
建っていたという跡地に、平成10年(1998)、「掛橋和泉」の旧邸を移転したという。
「掛橋和泉」は、神職でありながら、明治維新の志士たちの資金を調達するなど陰で支えた人物で、
幕末には、この旧邸に遠近の同士が立ち寄り時局を談じたと伝えられ、奥の間の階上には、
危難を考慮した「姫隠しの間」が設けられている。
左の写真、「旧掛橋和泉邸」の入口は、案内版の右手にあり、奥の白い建物は、「梼原高等学校」。
左の写真をクリックすると「吉村虎太郎庄屋屋敷跡」の案内版(800x600)が表示されます。
右の写真をクリックすると拡大写真(600x450)が表示されます。
2017/5/11(10:13)
「旧掛橋和泉邸」の一階座敷。
「床の間」には、「掛橋和泉」と「吉村虎太郎」の
ポスターが飾られる。
写真をクリックすると「旧掛橋和泉邸」の
案内版(800x600)が表示されます。
2017/5/11(10:13)
一階「茶の間」の囲炉裏。
同士との時局の談に備え、酒肴の準備が
整っているようである。
2017/5/11(10:14)
一階「土間」。
2017/5/11(10:14)
「姫隠しの間(隠し部屋)」への梯子。
「梯子(はしご)」を退けて天井を閉めると、
隠し部屋になるとある。
2017/5/11(10:14,10:15)
「姫隠しの間」。
高さはないが、広さは十分にある。
2017/5/11(10:16)
一階「神殿前客間」。
「掛橋和泉」の遺影(写真)には、「家財を
費やして同士を援助するが、義母の知る
ところとなり、累の及ぶことを恐れ、自決
(1835~1862)」との説明が書かれる。
2017/5/11(10:16)
「旧掛橋和泉邸」軒下に下がる「ワラ馬」。
「七夕祭りの際に、しめ縄や野菜等と一緒に、
豊作、家畜繁盛、子孫繁栄等を祈願するために
つくられた」とある。
写真をクリックすると拡大写真(600x450)が
表示されます。
2017/5/11(10:17,10:17)
「旧掛橋和泉邸」
当日は、気が付かなかったのだが、中二階の小部屋(姫隠しの間のことであろう)や、
奥の間にある床の間右側には、脱出口があるという。
入館料などはないし、明治維新の志士たちがこの家に集まり、どんな話をしていたのか等と、
思いを馳せながら見学すれば、有意義な時を過ごせることであろう。

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