水荷浦の段畑

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2012/9/27(15:54)
下から見る「水荷浦の段畑」。
「水荷浦(みずがうら)」は、「水ヶ浦」とも
書き、水に乏しく生活水を担いで運んだことに、
由来するという。
地元では、「段々畑」のことを「段畑」と書き、
これを「だんばた」と読む。
また、下から見る「段畑」は、「石垣」の部分
しか見えないため、巨大な城塞のようである。

2012/9/27(16:00)
「西海寺」。
「段畑」を上から見たいと坂を登っていくと、
その途中にあった。

2012/9/27(16:02)
坂の途中で振り返る。
「段畑」の最上段に写る細い道が、登ってきた
道である。

2012/9/27(16:09)
「段畑」頂上からの景観。
この美しさは、「日本農村百景」「四国のみずべ八十八カ所」に選ばれる。
畑では、11月に「馬鈴薯(ジャガイモ)」を植え、4月に収穫。6月には「サツマイモ」を植え、
10月に収穫するという二毛作である。
この日は、「サツマイモ」の収穫が終わった後と思われ、作物は一部の畑に残るだけであった。
2012/9/27(16:09,16:10,16:14)
「水荷浦の段畑」の歴史。
斜面一面が、段々畑化したのは、江戸時代の終わり頃で、当時は「サツマイモ」が作られたという。
明治末から大正にかけて盛んになった養蚕経営に伴い、畑は「桑畑」へと変化、養蚕の収入で、畑の石垣化が行われたという。
昭和に入ると、養蚕景気も終わり、働き盛りの男性は漁業、老人と女性は畑仕事という半漁半農の生活が続くが、
昭和30年代後半になると、今度は真珠やハマチの養殖が主体の生活へと変化し、30haあった段畑は、平成の初めには2haにまで減り、
「段畑」は、荒れ果てた状態になったという。
しかし、平成12年地元有志のメンバーが中心となって、「段畑を守ろう会」が発足。5haまでに段畑を復旧するとともに、
毎年4月には「だんだん祭り」を開催。年間2万人の観光客が訪れるようになったという。
左の写真をクリックすると拡大写真(600x450)が表示されます。
2012/9/27(16:15)
「段畑」頂上から見る「宇和海」。
写真をクリックすると拡大写真(600x450)が
表示されます。
2012/9/27(16:15)
「段畑」頂上から下を見る。
「段畑」の1段の高さは概ね1.5mだが、
幅は、1m程しかないという。まるで崖であり、
「段畑」を造った人の苦労は勿論のこと、
収穫時の重労働を思うと想像を絶する。
写真をクリックすると拡大写真(600x450)が
表示されます。
2012/9/27(16:17)
狭い階段を降りる。
左に写るのが「西海寺」。
2012/9/27(16:19)
大分下まで降りてきた。
2012/9/27(16:21)
「段畑」は、家から手を伸ばせば届く位の所まで
迫る。
2012/9/27(16:24)
家と家の間から見る「段畑」。
2012/9/27(16:39)
下から見る「段畑」。
この日は、写真の右から登り、「段畑」の頂上を左まで往復した。

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