東行庵
(高杉晋作墓所)

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2016/5/16(12:24,12:21)
「晋作の湯」と晋作の湯の2階休憩室から見る「東行池」。
「東行庵(とうぎょうあん)」は、下関市吉田にある曹洞宗の寺院であり、元は、奇兵隊軍監
「山縣有朋(当時は狂介)」が建てた草庵「無隣庵」であった。
「高杉晋作(号を東行)」は、遺言により「遺骸は奇兵隊の本拠に近い”清水山”に」とのことから、
「晋作」死後の遺骸は、この境内に葬られた。
また、「晋作」の死後、「晋作」に仕えていた愛妾「うの」は出家、「梅処」と称し、「晋作」の眠る
この地で、「晋作」の菩提を弔うことを余生としていたが、明治17年(1884)、旧藩主「毛利元昭」や、
「伊藤博文」等の寄付により、霊位礼拝堂「東行庵」が建てられ、「梅処」が「初代庵主」となっている。
昭和41年(1966)には、「東行」没後100年を記念して、「庵」の大修理や「東行記念館」が開館している。
なお、本ページでは、「高杉晋作」の名前を「高杉東行」や単に「東行」等と記述しているが、
これは、現地案内板等に書かれている呼称を、そのまま引用しているためである。
また、往路と帰路の写真を並べたことにより、撮影時刻が前後する写真があります。
2016/5/16(13:05)
駐車場から見る「東行庵」。
「晋作の湯」から「東行庵」の駐車場に移動。
この写真は、クリックすると表示される「案内図」の
右下に「みやげ店、駐車場」と書いてある場所から、
「現在地」と書かれる方向を撮影したものである。
写真をクリックすると「東行庵境内案内図」が
表示されます。
この案内図は、1,200x900ピクセルあります。
案内図の文字を読みたいときには、表示された画像を
クリックし、スクロールバーをご利用下さい。
2016/5/16(13:06)
県道260号「宇賀山陽線」を渡り、
案内図に「現在地」と書かれた場所である。
写真の石橋を渡り、奥に進むと「晋作の墓」だが、
先ずは、左に進み「東行庵」の方向へと歩く。
2016/5/16(13:06)
「讃東行隊長歌碑」。
昭和41年(1966)、「東行の百年祭」で、四国松山の
漢詩家で書道家の「小原六六庵」が、詣でたときに
「晋作」の墓前で詠んだ作が「小原六六庵」の自筆で、
「奇兵隊長睡斯山 明治以来悠俗寰
 想起當年不堪見 杜鵑花発松柏間」と刻まれる。
2016/5/16(13:07)
「東行庵」。
明治17年(1884)、「伊藤博文」「山縣有朋」「井上馨」等
の寄付により建立され、「梅処」は、明治42年(1909)、
その生涯を閉じるまで「東行」の菩提を弔ったとある。
写真をクリックすると「東行庵」の説明(600x450)が
表示されます。
2016/5/16(13:07)
「わらべ地蔵」。
案内板には「山陽花の寺 霊場 第八番札所お地蔵様」
とあり、「東行庵」は、四季折々の花が咲く、
「花の寺」としても知られる。
2016/5/16(13:08)
石橋まで戻り「晋作の墓」の方向に歩く。
2016/5/16(13:09)
「川上米男翁顕彰之碑」。
「川上米男」は、下関の実業家で、住宅設備機器総合
メーカー「長府製作所」の創業者である。
顕彰碑には、「高杉晋作を尊敬し、四季折々
”東行庵”を訪れた」と刻まれる。
2016/5/16(13:10)
「高杉東行(晋作)顕彰碑」。
高さ3.2m、幅1.5m。
明治44年(1911)、「井上馨」により除幕され、
碑文の頭書きには、「高杉晋作」の人となりを表した
名文「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し…」が
刻まれる。
2016/5/16(13:23)
「福田侠兵(公明)顕彰碑」。
「福田公明」は、奇兵隊軍監として、「高杉晋作」に
最も信頼されていた人物で、「晋作」の顕彰碑の
隣りに建つ。
2016/5/16(13:11)
「高杉晋作」の墓。
写真中央の墓標には「東行墓」と刻まれ、手前左には
「伊藤博文」「井上馨」「木戸孝允」が寄進したという
「灯篭」が建つ。
2016/5/16(13:11)
「高杉晋作」の墓。
「高杉晋作」は、若干27歳8ヶ月で、その生涯を
閉じている。
遺言により、遺骸は奇兵隊の本拠に近い、
この地「清水山」に埋葬されることを希望したという。
写真をクリックすると「高杉晋作の墓」の
説明(450x600)が表示されます。
2016/5/16(13:21)
「寄進の灯篭」。
灯篭の左に立つ案内板には、寄進者の名前が、
「大江孝允 後の 木戸孝允」、「源馨 後の 井上馨」、
「越智博文 後の 伊藤博文」と書かれる。
2016/5/16(13:12)
「福田公明の墓」。
「高杉晋作」の墓の隣りに建ち、案内板には、
「遺言により、”高杉晋作”の墓側に葬られた」とある。
写真をクリックすると「福田公明の墓」の
説明(450x600)が表示されます。
2016/5/16(13:13)
「大田里灯句碑」。
下関市に生まれた「大田里灯(本名:文男)」の句碑で、
「蟻の列奇兵隊小者喜作の墓」と刻まれる。
2016/5/16(13:15)
石段の上に「正観世音菩薩像」が見えている。
2016/5/16(13:16)
「正観世音菩薩像」前の石段下左側の
「奇兵隊及び諸隊士顕彰墓地」。
維新戦争で亡くなった10~20代の長州諸隊士の
多くが、無縁仏となっているのを嘆いた東行庵の三世
「玉仙」は、これらを各地から集めここに供養したという。
2016/5/16(13:16)
「正観世音菩薩像」前の石段下右側の
「奇兵隊及び諸隊士顕彰墓地」。
2016/5/16(13:16)
「正観世音菩薩像」。
2016/5/16(13:23)
「山縣有朋銅像」。
「山縣有朋」は、吉田松陰の松下村塾で高杉晋作と
机を並べた盟友であり、後に「東行庵」となる「無隣庵」を
建てた人物である。
2016/5/16(13:26)
「高杉晋作」が残した「墓碑銘」が刻まれる墓誌碑。
「高杉晋作」は、生前、自身の墓に刻む「墓碑銘」を
残していたのだが、この「墓碑銘」の発見が遅れたため
墓標には「東行墓」とだけ刻まれている。
このため、平成28年(2016)、「高杉晋作」の150回忌に
あたり、まぼろしの「墓碑銘」を刻んだ「墓誌碑」を
建碑したとある。
写真をクリックすると「墓碑銘」の説明(450x600)が
表示されます。
2016/5/16(13:26)
「高杉東行陶像」。
元は、「山縣有朋」の銅像が建っていたが、戦時中に
供出されたため、昭和31年(1956)に「伊勢崎陽山」作、
備前焼の「高杉東行陶像」が建立されたという。
写真をクリックすると近寄って撮る「高杉東行陶像」が
表示(450x600)されます。
2016/5/16(13:28)
「東行楓」。
樹齢300年とある。
2016/5/16(13:28)
13時6分の「石橋」に向け、往路を戻る。
2016/5/16(13:29)
「日露戦役凱旋祈念碑」。
「石橋」の近くに立つ。
2016/5/16(13:30)
「横山健堂顕彰碑」。
萩生まれの文筆家で、人物評論家としても知られ、
「大正5年(1916)に出版された名評伝”高杉晋作”に
ちなみ、昭和58年(1983)に建立された」とある。
2016/5/16(13:31)
「高杉晋作文学碑」。
平成13年(2001)年に建立され、
「面白きこともなき世を面白く 高杉晋作」
「住みなすものは心なりけり 野村望東尼」
共に「高杉晋作」病床での作といわれる句が刻まれる。
「野村望東尼」は、下関で「高杉晋作」を看病ののち、
現在の「防府市」で没したという。
2016/5/16(13:31)
「高杉東行銅像」。
彫刻作家「奈部雅昭」の作、平成26年(2014)の建立。
銘板の揮毫は、現在の「長門市」を本籍とする、
当時の首相「安倍晋三」が行っている。
2016/5/16(13:32)
「晋作の湯」から見えた「東行池」に向かう。
2016/5/16(13:32)
「黄菖蒲」?。
黄色の「花菖蒲」もあるというので、「花菖蒲」かも?。
2016/5/16(13:34)
三世「谷玉仙尼銅像」。
「東行池」に浮かぶ島にある。
2016/5/16(13:35)
「東行記念館」。
「高杉晋作」100年祭記念事業の一環として建てられ、
昭和41年(1966)にオープン。
「高杉家」から寄贈された「晋作」ゆかりの遺品や
「奇兵隊」に関する資料などを収蔵、展示する(有料)。
写真をクリックすると「東行記念館(晋作と龍馬)」の
説明(600x800)が表示されます。

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