錦帯橋

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2013/4/18(14:17,14:20)
橋の下流側左岸から見る「錦帯橋」。
日本三名橋の一つといわれる「錦帯橋 (きんたいきょう)」 は、「岩国城」の麓を流れる「錦川」に
架かる木造の橋で、長さ193.3m、幅5m。美しい姿の五連の反り橋は、国の名勝にも指定され、
現在はユネスコ世界文化遺産登録に向けた活動を行っているという。
左の写真をクリックすると少し近づいて撮る「錦帯橋」が表示(600x450)されます。
この拡大写真では、山の上に建つ「岩国城」の姿が確認できます。
2013/4/18(14:21)
橋の下から見上げる「錦帯橋」。
現在の橋は、平成13年(2001)年から約2年半に及ぶ
「平成の架け替え」により、木造部分が架け替えられた
ものだが、古図を元に当時の技術を再現。設計や
測量は尺貫法で行われ、釘もステンレス製ではなく、
手打ちした「たたら鉄」の和釘が使われたという。
写真をクリックすると拡大写真(450x600)が
表示されます。
2013/4/18(14:23)
「錦川」左岸の料金所。
料金は「橋の維持保全のために徴収する」とあり、
1枚の「入橋券」で、往復利用することができる。
2013/4/18(14:24)
「錦帯橋」を渡る。
特に勾配の急な部分は「階段状」になっている。
写真をクリックすると少し高い位置から撮る「錦帯橋」が
表示(450x600)されます。
2013/4/18(14:27)
観光バスの乗客で、急に人が増える。
混雑時は「右側通行」とあった。
2013/4/18(14:29)
「錦川」左岸河川敷の「駐車場」。
大型観光バスが1台止まっているのが見える。
2013/4/18(14:32)
「錦川」右岸の料金所。
「錦川」右岸には、「岩国城」を初め見どころが多いため、
一旦外に出るが、「入橋券」は、帰りも使えるため、
ここでは見せるだけで通過する。
2013/4/18(14:34)
橋の上流側右岸から見る「錦帯橋」。
「錦帯橋」中央の3連は、橋桁のない「アーチ橋」だが、
両端の2つの橋は橋桁の付いた反り橋である。
2013/4/18(14:35)
「岩国市開花標準樹(ソメイヨシノ)」。
橋の上流側右岸にある。
写真をクリックすると石段の上から撮る「開花標準樹」が
表示(600x450)されます。
2013/4/18(14:37)
「槍倒し松(やりこかしまつ)」。
橋の下流側右岸にある。
「大藩の大名行列でも槍を倒さないと通れないように、
わざと横枝のはった松を植えた」とある。
写真をクリックすると「槍倒し松」の案内板が
表示(800x600)されます。
2013/4/18(14:38)
「巌流ゆかりの柳」。
橋の下流側右岸にある。
「佐々木巌流小次郎は、この辺りの柳とつばめを相手に
『つばめ返し』の術を編み出した」とある。
写真をクリックすると「巌流ゆかりの柳」の
案内板(600x450)が表示されます。
2013/4/18(14:40)
「吉香公園」入口にある案内板。
この案内板には、公園が2つ、銅像が3つ、他にも神社、
資料館、菖蒲園等々、沢山の見どころが書かれている。
写真をクリックすると観光案内図(900x650)が
拡大表示されます。
2013/4/18(14:42)
「3代藩主吉川広嘉公銅像」。
「3代藩主広嘉(ひろよし)」は、流失しない橋を研究。
橋脚のないアーチ型の「錦帯橋」を考える等、
「岩国」の文化を発展させたという。
写真をクリックすると拡大写真(450x600)が
表示されます。
2013/4/18(14:45)
「吉香公園」。
旧岩国藩主吉川家の居館跡を公園にしたもので、
園内には「目加田家住宅」、「錦雲閣」、「吉香神社」等、
藩政時代を偲ばせる建造物が点在する。
2013/4/18(14:49)
岩国藩主「吉川(きっかわ)家墓所」 正面入口。
墓所の中には、「6代藩主経永(つねなが)」を除く、
歴代藩主や妻子の墓などがある。
2013/4/18(14:49)
「吉川家墓所」の案内板。
写真をクリックすると「吉川家墓所」の案内板が
表示されます。
この案内板は、1200x600ピクセルあります。
案内板の文字を読みたいときには、表示された
画像をクリックし、スクロールバーを
ご利用下さい。
2013/4/18(14:49)
「吉川家納骨堂」。
写真をクリックすると4.5倍ズームで撮影した
「納骨堂」が表示(600x450)されます。
注:「岩国」が正式に藩として認められたのは、大政奉還後の慶応4年(1868)、新政府によってのことである。
しかし、現地案内板等では、慶長5年(1600)、「岩国」の初代領主となった「広家(ひろいえ)」を「初代藩主」としている。
現地案内板等に書かれているのは単なる誤記述等ではなく、現地の言葉(考え)で書かれていると考え、
本ページでは、現地案内板と同じ表記で記述しています。
2013/4/18(14:53)
「12代藩主経幹(つねまさ)の娘」の墓。
以降、撮影した中の一部を紹介する。
「12代藩主経幹」は、慶応4年(1868)岩国藩が独立した
藩として正式に認められた時の「初代藩主」となるが、
この時、前年に亡くなっていた「経幹」の死は隠されて
いたため、「経幹」は生存していなかったという。
2013/4/18(14:54)
左から「4代藩主広紀(ひろのり)の長女」と
「6代藩主経永(つねなが)の次女」の墓。
「4代藩主広紀」は、最も安定し全盛期を迎えた時代の
藩主である。
「6代藩主経永」は、藩の財政が悪化した時代の藩主で
ある。
2013/4/18(15:01)
左から「10代藩主経礼(つねひろ)」、「4代藩主広紀」と
「5代藩主広逵(ひろみち)」の墓。
「10代藩主経礼」は、財政改革が成功した時代の
藩主である。
「5代藩主広逵」は、2歳で藩主になったという。
2013/4/18(15:02)
「3代藩主広嘉」の墓。
「広嘉」は、岩国の文化を発展させた藩主である。
2013/4/18(15:02)
「2代藩主広正(ひろまさ)」と正室の墓。
「2代藩主広正」は、製紙業を起こし経済力を強化した
藩主である。
他にも正室と共に並ぶ墓はいくつかあったが、
家族が一ヶ所に集められているわけではなく、
意外とばらばらに点在しているという印象であった。
2013/4/18(15:10)
「香川家長屋門」。
270年余り前に建てられた「岩国藩家老香川氏の表門」
とある。
写真をクリックすると「香川家長屋門」の案内板が
表示(800x600)されます。
2013/4/18(15:11)
内側から見る「香川家長屋門」。
2013/4/18(15:11)
南東側から見る「香川家長屋門」。
2013/4/18(15:12)
「吉川氏屋敷跡」。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの後、岩国に入り、
代々「岩国藩」の家老を努めた「石見吉川氏」の
屋敷跡で、江戸中期頃に建築された長屋が残って
いたが、建物は老巧化により平成23年(2011)に
解体されたという。
2013/4/18(15:14)
「吉川経家(つねいえ)弔魂碑」。
秀吉の鳥取城攻めにより、鳥取城の開城を余儀なくされ
切腹した「経家」の英魂を弔うため、「経家」の子孫「石見
吉川氏」の屋敷があった、この地に建立されたという。
石碑の礎石には、鳥取城の石12個が使用されている。
2013/4/18(15:16)
「佐々木小次郎像」。
吉川英治の小説「宮本武蔵」の中では、「岩国の出身で、
錦帯橋畔で、燕返しの術を得た」となっているが、真相は
未だに不明という。
写真をクリックすると縦に撮る「佐々木小次郎像」が
表示(450x600)されます。
2013/4/18(15:27)
「錦帯橋」右岸の橋脚。
「平成の架け替え」により、木造部分は全面架け替えられ
ているが、完成から約9年が経過する今でも、まだ新しく
見える。
周辺は見どころが多く、もう少し時間をかけて見たかった
のだが、再び「錦帯橋」を歩き、次の目的地へと向かう。

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