城下町長府

この下にある「プルダウンメニュー」が表示されない場合は、ページ最下行にあるハイパーリンクをご利用下さい。





2016/5/16(16:03,16:06)
「長府観光会館」と「長府ふれあい橋」。
「城下町長府」は、山口県下関市の東部に位置し、「毛利秀元(1579-1650)」が「長府藩五万石」を創始して、
城下町を造ったのが始まりで、武家屋敷の古い街並みや神社・仏閣等の文化財を今に残す。
また、「長府」は、地方都市にありながら、「高杉晋作(1839-1867)」他、多くの志士を輩出。
元治元年(1864)には、「高杉晋作」が「功山寺」にて「伊藤俊輔(博文)」らを率いて挙兵、後には幕府を倒し、
明治維新発祥の地となる等、幾度となく日本の歴史舞台にも上がっている町である。
「長府観光会館」は、「長府」の観光拠点として、山口県名産の「萩焼」や菓子、海産物などの土産品を用意。
2階のお食事処では、下関名物の「ふく料理」を味わうことができ、無料の駐車場もある。
「長府ふれあい橋」は、「長府観光会館」のすぐ脇を流れる「檀具(だんぐ)川」に架かる橋で、
先ずは、橋を渡り「檀具川」の左岸を上流方向へと歩く。
左の写真をクリックすると「長府地区維新の史跡案内図」が表示されます。
この案内図は、1,280x800ピクセルあります。
案内図の文字を読みたいときには、表示された画像をクリックし、スクロールバーをご利用下さい。
2016/5/16(16:06)
「長府ふれあい橋」から見る「檀具川」。
写真は、上流の方向だが、下流方向には、
沢山の「鴨」が羽を休めていた。
2016/5/16(16:08)
長府藩士「印藤聿」生家跡。
「印藤聿(いんどうのぶる)」は、「坂本竜馬」を政治的に
支援した長府藩士で、維新後は「豊永長吉」と名を改め、
関門地域の殖産興業に尽力したという。
2016/5/16(16:13)
「檀具橋(だんぐばし)」。
「長府藩侍屋敷長屋」の東側に架かる橋で、
欄干横の石碑には、「侍町」の由緒等が刻まれる。
写真をクリックすると「侍町」の説明(800x600)が
表示されます。
2016/5/16(16:13)
「長府藩侍屋敷長屋」の東側。
この長屋は、長府藩家老職の分家(御馬廻役、220石)
の本門に附属していたものを移設したとある。
写真をクリックすると「長府藩侍屋敷長屋」の
説明(960x400)が表示されます。
2016/5/16(16:14)
「長府藩侍屋敷長屋」。
屋根は、軒下の勾配を緩く、屋根面に反りを付けた、
社寺建築の技法が見られるという。
2016/5/16(16:14,16:15)
「長府藩侍屋敷長屋」の中。
畳の上には、端午の節句の「兜」等が飾られ、土間にはテーブルと椅子が置かれ、
休憩所として使われている。
2016/5/16(16:16)
西側から見る「長府藩侍屋敷長屋」。
2016/5/16(16:16)
「長府藩侍屋敷長屋」西側に架かる橋を渡り、
「檀具川」左岸に戻る。
2016/5/16(16:20)
「御影の井戸」。
「檀具川」左岸の道から、路地を北に入った所にある。
「菅原道真公」が太宰府に流される途中、長府に上陸。
この井戸に自分の姿を映し、「もう二度とこの地に来る
ことはなし。この井戸で私の顔を見ることもあるまい」と、
自画像を描かれたという。
写真をクリックすると、別角度で撮る「御影の井戸」が
表示(450x600)されます。
2016/5/16(16:22)
「檀具川」沿いの木。
木の幹や枝は、「コケ植物(地衣類?)」と「つる植物」で
覆われている。
写真をクリックすると3倍ズームで撮る写真(600x450)が
表示されます。
2016/5/16(16:27)
「笑山寺(長府藩主毛利家墓所)」。
「笑山寺(しょうざんじ)」は、「功山寺」、「笑山寺」、
「覚苑寺」の三寺院に別れる「長府藩主毛利家墓所」の
内の一つだが、藩主墓は、いずれも「遺骸」を埋葬しない
「詣り墓」で、「埋葬墓」は、東京の「泉岳寺」にある。
写真をクリックすると「長府藩主毛利家墓所(笑山寺)」の
説明(800x600)が表示されます。
2016/5/16(16:28)
「笑山寺」の境内。
奥に建つのが「本堂」。
2016/5/16(16:28)
「観世音菩薩」。
2016/5/16(16:29)
「動物供養塔」。
「納骨室」の上には、複数の動物が置かれている。
写真をクリックすると「供養塔」の前に置かれる
動物たちの写真(600x450)が表示されます。
2016/5/16(16:31)
「笑山寺十三重石塔」。
「相輪部」を除いた石塔の高さは、3.28m。
最上部の「相輪」は消失しており、他の石塔の
「宝珠」が乗せられている。
写真をクリックすると「笑山寺十三重石塔」の
説明(800x600)が表示されます。
2016/5/16(16:34)
「功山寺」。
「功山寺(こうざんじ)」は、「長府藩主毛利家」の
菩提寺の一つで、初代「秀元」をはじめ、7名の藩主達の
墓がある。
寺の創建は、鎌倉時代で、唐様建築の「仏殿」は、
国宝に指定され、「高杉晋作」が「伊藤俊輔(博文)」達を
率いて挙兵した場所としても知られる。
写真をクリックすると「功山寺」の説明(450x600)が
表示されます。
2016/5/16(16:37)
「木造地蔵菩薩半跏像」が納められるお堂。
この「木造地蔵菩薩半跏像」は、蓮華座、指先、持物が
「後補(後世の補修)」である他は、ほとんど損傷もなく、
山口県の文化財(彫刻)に指定されている。
写真をクリックすると、扉越しに撮る「木造地蔵菩薩
半跏像」の写真(600x450)が表示されます。
2016/5/16(16:38)
功山寺「山門」。
2階楼上には「二十八部衆立像」が安置されており、
「山門」と共に、下関市の文化財に指定されている。
写真をクリックすると「功山寺山門」の説明(800x600)が
表示されます。
2016/5/16(16:40)
功山寺「仏殿」。
この「仏殿」は、典型的な鎌倉時代末期の唐様(禅宗様)
建築様式の建造物で、国宝に指定されている。
堂内には、寺伝で、京の仏師「雲渓」作と伝わる、
本尊「千手観音坐像」が安置される。
写真をクリックすると「功山寺仏殿」の説明(800x600)が
表示されます。
2016/5/16(16:42)
功山寺「本堂」。
創建時は、臨済宗「長福寺」と呼ばれたが、長府藩祖
「毛利秀元」により、曹洞宗「笑山寺」と改称。
更に慶安3年(1650)、「秀元」の没後、戒名(功山玄挙
大居士)をもって「功山寺」に改称されたという。
2016/5/16(16:42)
功山寺「輪蔵」。
建物の中央に、八角形の回転式経庫を備え、
一切経の経本1,600冊が収められている。
写真をクリックすると「功山寺輪蔵」の説明(450x600)が
表示されます。
2016/5/16(16:43)
「高杉晋作回天義挙銅像」。
「回天義挙」とは、元治元年(1865)、「高杉晋作」ら
正義派の長州藩諸隊が、俗論派打倒のために、
「伊藤俊輔(博文)」達を率いて「功山寺」で起こした、
武力行動の旗揚げ(功山寺挙兵)のことだという。
写真をクリックすると、縦に撮る「高杉晋作
回天義挙銅像」が表示(450x600)されます。
2016/5/16(16:44)
功山寺「鐘楼」。
2016/5/16(16:45)
功山寺「名水」。
この「名水」は、病災消除、延命の名水として、古くから
多くの参拝者に愛飲され、「回転義挙」の兵を挙げた
「高杉晋作」達も、この名水を愛飲して「挙兵」の成功を
祈ったという。
写真をクリックすると「功山寺名水」の由来(800x600)が
表示されます。
2016/5/16(16:51)
「総社跡」。
場所は、「長府毛利邸」入口のすぐ脇である。
「長門国府」は、現在の「忌宮神社」の近辺に在った
といわれ、「国衙(こくが:地方政治を遂行した役所)」に
近い、この場所に「長門国」の総社が建立されていた
という。
写真をクリックすると「総社跡」の説明(600x500)が
表示されます。
2016/5/16(16:51)
「長府毛利邸」。
第14代当主「毛利元敏」が、明治36年(1903)に建てた
邸宅である。
建物は、明治天皇の宿泊所としても使われ、
「池泉回遊式」の庭園は、苔、石、池、灯篭等配置の
「妙」で知られる。
長府を訪れた際には、是非寄りたい場所なのだが、
開場が午後5時までであり、この日は残念ながら断念。
写真をクリックすると「長府毛利邸」の説明(800x600)が
表示されます。
2016/5/16(16:57)
「昭和モダン館」。
「長府毛利邸」の次は、城下町らしい雰囲気を醸しだす
という「古江小路」を歩きながら、「忌宮神社」へと
向かいたかったのだが、この時は方角が分からず、
標識に「忌宮神社」と書かれた方向(北)に向かうと、
すぐ右側に、この「昭和モダン館」があった。
「昭和モダン館」は、「長府商店街」の町おこし事業
として始められた、「昭和れとろ構想プロジェクト」の
一環として造られ、館内には、大正、昭和時代の
レトロな品々が並べられているという。
2016/5/16(17:03)
「忌宮神社」。
「忌宮(いみのみや)神社」は、第14代「仲哀天皇」、
「神功皇后」が、「西国平定」の折り、7年間にわたり、
仮の皇居として滞在し、斎宮を建て神祇を祭ったのが
始まりといわれる。
また、毎年8月に行われる「数方庭祭」は、
その勇壮さに、天下の奇祭と呼ばれる。
写真をクリックすると「忌宮神社」の由来(800x600)が
表示されます。
2016/5/16(17:04)
忌宮神社の「石灯籠」。
鳥居を潜り境内に入ると、大きな「石灯籠」がある。
1800年の歴史を誇るという天下の奇祭「数方庭祭」は、
この境内で、毎年8月7日~13日の7夜に渡って
行われる。
写真をクリックすると「石灯籠」の部分を切り抜く
画像(450x600)が表示されます。
2016/5/16(17:05)
「鬼石」と「数方庭祭(すほうていまつり)」。
「数方庭祭」では、男は、2本の竹をつないだ、
高さ約30m、重さ約100kgの「大幟(おおや)」を担ぎ、
女は、「切籠(きりこ)」と呼ばれる笹飾りを持って、
7夜に渡って「鬼石(写真の柵で囲まれる中にある)」の
周りを回るという。
写真をクリックすると「数方庭の由来と鬼石」の
説明(800x600)が表示されます。
2016/5/16(17:05)
「鬼石」。
「仲哀天皇」に射倒された「塵輪(じんりん)」の首は、
埋めて石で覆ったという。
この「塵輪」の顔が鬼のようであったことから、
覆った石を「鬼石」と呼ぶという。
なお、「塵輪」とは、朝鮮半島「新羅国」の「悪鬼」で、
真ん中に大きな鬼の顔、その回りにやや小さな鬼の
顔が7つあり、全部で8つの鬼の顔を持つという。
2016/5/16(17:06)
「忌宮神社」。
社殿は、明治10年(1877)に造営されたものを、
近年改修し、現在に至る。
写真をクリックすると、別角度から撮る「忌宮神社」の
写真(600x450)が表示されます。
2016/5/16(17:06)
「忌宮神社」の境内に立つ木。
「御神木」とも思うのだが、その旨の案内板もなく
確認できず。
写真をクリックすると拡大写真(450x600)が
表示されます。
2016/5/16(17:09)
「神功皇后」お手植えの「さか松」。
「神功皇后」は、「三韓出兵」に際し、一本の稚松を
逆さまに植えて戦勝を占われたという。
逆さまに植えられた松は、活着して繁り栄えたことから
「さか松」と呼ばれ、古木の一部を安置。側には子孫の
若松が今も栄えるという。
写真をクリックすると2倍ズームで撮る「さか松」の
写真(600x450)が表示されます。
2016/5/16(17:10)
「荒熊稲荷神社」。
神社の右に建つのは、「相撲資料館」。
山口県出身の「放駒親方(元大関・魁傑)」は、
「荒熊稲荷神社」で、必勝祈願を行い優勝したこと等を
縁に、相撲資料館を開館。
「魁傑」や元横綱「大乃国」の化粧まわしや優勝杯、
大銀杏などを展示する。
2016/5/16(17:20)
「長府観光会館」に戻る。
「城下町長府」は、見るものが多い。
「長府観光会館」には、「レンタル自転車」もある。
先ずは、「長府観光会館」で、「散策MAP」を手に入れ、
この地図を見ながら、「明治維新発祥の地」を
時間をかけて楽しまれることを、お勧めする。
最後に、「長府ふれあい橋」脇に建つ「兼﨑地橙孫
(かねざきぢとうそん)の句碑」を紹介する。
「兼﨑地橙孫」は、山口県出身の俳人で、句碑には、
「虹の弧に  故郷の山河 収めたり」と刻まれる。
写真をクリックすると「兼﨑地橙孫」の句碑(600x450)が
表示されます。

  旅の記録(山口県)に戻る

  旅の記録に戻る      Donichi’s HomePageに戻る