旧閑谷学校

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2013/4/15(14:06,14:07)
「旧閑谷学校」駐車場付近にある案内板。
特別史跡「旧閑谷(しずたに)学校」は、寛文10年(1670)岡山藩主「池田光政」によって創設された、
日本最古の「庶民教育のための学校(学問所)」である。
そして、「光政」の死後、元禄14年(1701)に2代目藩主「綱政」が完成させたという建造物群は、
国宝に指定される講堂の他、そのほとんどが重要文化財等に指定されている。
右の写真は、旧閑谷学校の創設者「池田光政」他、閑谷学校ゆかりの人々を紹介する案内板。
左の写真をクリックすると「案内図」が拡大表示(960x720)されます。
案内図の文字を読みたいときには、表示された画像をクリックし、スクロールバーをご利用下さい。
2013/4/15(14:09)
「薇山西先生追慕之碑(左)」と「創学三百年記念碑(右)」。
「薇山西先生」とは、岡山藩の下級士族の家に生まれ、
明治14年(1881)に組織された「閑谷保黌会(ほこうかい)」
の中心となって閑谷学校の再興を図り、半生を閑谷黌
教育に捧げ、閑谷学校中興の祖とも呼ばれる「西薇山
(本名毅一)」のことである。
補足:「黌」は、「校」と同義で、学校(まなびや)の意味。
2013/4/15(14:09)
「泮池(はんち)」。
「中国上代の諸侯の学校である頖宮の制に擬して
造られたもので、普通は半円形に造られるが、
閑谷学校の場合は、幅7m。長さ80mを超える
長方形」とある。
写真をクリックすると、別の角度で撮る「泮池」が
拡大表示(600x450)されます。
2013/4/15(14:10)
「校門」。
貞享3年(1686)に、「聖廟」の正門として建てられたもの
だが、閑谷学校の校門でもあり、別名「鶴鳴門」とも
呼ばれる。
門の中央からは、「聖廟」が見えている。
写真をクリックすると「校門」が拡大表示(600x450)
されます。
2013/4/15(14:12)
「旧閑谷学校」入口。
門の中央に見えているのは「閑谷神社」。
門を入った右に、入場券売り場がある。
2013/4/15(14:13)
入口を入ったところで見る「旧閑谷学校」。
全体を「石塀」で囲み、周りの建物は、左から、「校門」、「講堂」。少し高い所に建つのが「聖廟」と「閑谷神社」。
2013/4/15(14:15)
「閑谷神社」。
閑谷学校の創設者、岡山藩主「池田光政」を祀り、
西に隣接して建つ「聖廟」に対し「東御堂」とも呼ばれる。
また、「孔子」を祀る「聖廟」よりも少し低い位置に建つ。
2013/4/15(14:15)
「閑谷神社」の拝殿。
2013/4/15(14:16)
「閑谷神社」の拝殿(左)と本殿(右)。
本殿には、宝永元年(1704)に鋳造された「光政」の
金銅製座像が安置されているという。
2013/4/15(14:20)
「聖廟」。
儒学の始祖「孔子」を祀り、「孔子廟」または「西御堂」とも
呼ばれる。
2013/4/15(14:20)
「聖廟」の建物。
奥(写真右)に建つのが本殿にあたる「大成殿」。
2013/4/15(14:21)
「大成殿」。
建物は、貞享元年(1684)完成。
中にある厨子には、元禄14年(1701)に鋳造された
「孔子像」が安置されているという。
2013/4/15(14:22)
「繋牲石(けいせいせき)」。
孔子を祀る「釈奠(せきてん)」に供える牛・羊・豚などの
生き物をつなぐ石柱であるが、閑谷学校では「簡素にして
厳粛な儀式」として、野菜を供える「釈菜(せきさい)」を
行うため、形式的に配置しているという。
2013/4/15(14:23)
「楷」の木。
「楷(かい)」は、東南アジアや中国に自生するウルシ科
の植物であるが、ここに立つ「楷」は、大正4年(1915)に、
林学博士「白沢保美」が中国の孔子林から持ち帰った
種を育てた内の一対であり、秋には素晴らしい紅葉を
見せるという。
後ろの建物は、「聖廟」。
写真をクリックすると拡大写真(600x450)が
表示されます。
2013/4/15(14:24)
「石塀」。
元禄14年(1701)に完成。
閑谷学校の施設をすべて囲み、その全長は765mにも
及ぶという。
2013/4/15(14:25)
「公門」。
「講堂」の正面にあり、藩主臨学の際に通った門で、
「御成門」とも呼ばれる。
2013/4/15(14:25)
「小斎(しょうさい)」。
「講堂」の入口横に建ち、藩主臨学の際などに使用した
建物という。
2013/4/15(14:27)
南側の広縁から見る「講堂」の中。
「講堂」は、中央に10本の円柱で囲まれた「内室」と、
その周囲の「入側」からなり、外廻りを「広縁」で取巻く。
写真には、2代藩主「綱政」の書による「定(さだめ:
入学者の心得、3ヶ条の掟)」と「朱子学」の基本規約が
書かれた「朱文公学規」の壁書が写る。
写真をクリックすると、別の角度で撮る「講堂」の中が
拡大表示(600x450)されます。
2013/4/15(14:27)
講堂から見る「小斎」。
「小斎」には入ることができなかったが、中には二つの
部屋の他に、納戸・浴室・雪隠が付属するという。
2013/4/15(14:28)
東側の広縁から見る「講堂」の中。
「講堂」では、1と6の日に、「四書五経」等の講釈、
「釈菜」の講経、正月の読初めの儀、藩主臨学のときの
講釈等が行われたという。
そして、今でも国宝の「講堂」に座し、論語を朗誦し、
講議の後には、講堂の床磨きを体験する「旧閑谷学校
日曜論語」が、年に10回ほど開催されている。
2013/4/15(14:29)
講堂北側の「広縁」。
2013/4/15(14:29)
西側の広縁から見る「講堂」の中。
壁の額は、5代藩主「池田治政」の書「克明徳」。
2013/4/15(14:30)
「習芸斎」。
「習芸斎(しゅうげいさい)」は、学習の場所で、毎月
朔日(ついたち)には「朱文公学規」の講話がなされ、
近隣の百姓の聴講も許されたという。
また、 3と8の日には「五経」などの講釈が行われた。
2013/4/15(14:30)
「飲室」。
「飲室(いんしつ)」は、生徒達の休憩の場で、湯茶を
喫することができたという。
2013/4/15(14:34)
「講堂」と広縁の間にある「花頭窓」。
2013/4/15(14:36)
「講堂」から見る小斎。
藩主臨学の際には、藩主はこの部屋に座り、「講堂」で
学ぶ生徒達の様子を、ご覧になっていたという。
2013/4/15(14:36)
「習芸斎」の部屋上部。
天井を張らず、太い自然木の梁と屋根裏が見えている。
2013/4/15(14:38)
「習芸斎」の部屋上部。
2013/4/15(14:42)
外から見る「飲室(左)」と「習芸斎(右)」。
「講堂」の西側に位置し、「習芸斎」は「講堂」の広縁と
繋がっている。
2013/4/15(14:43)
「飲室門」。
「飲室門」は、日通いの生徒や、毎月朔日(ついたち)に
行われる「朱文公学規」講釈に出席する聴講者達が、
この門を潜ったという。
2013/4/15(14:44)
「文庫」。
閑谷学校で使用する教科書や参考書等、約8,000点が
所蔵されていたという。
2013/4/15(14:45)
「火除山」。
これより西側にある学舎や学房(寄宿舎)の出火が、
東側の「講堂」等に及ぶことのないように、防火目的で
作られた人工の山である。
2013/4/15(14:51)
「火除山」の横を通り、西側の「資料館」へと向かう。
この写真は、帰りに撮影のため、時間が前後しています。
2013/4/15(14:47)
学舎と学房(寄宿舎)跡。
平生の勉学や生活は、ここで行われていた。
2013/4/15(14:47)
「資料館」。
建物は、明治38年(1905)、私立中学閑谷黌の学舎として
造られたもので、学舎本館が「資料館」の展示場として
使われている。
2013/4/15(14:48)
「西薇山先生」顕彰碑。
「資料館」入口横に立ち、大正14年(1925)、「薇山」の
教えを慕う教え子達により建立されたという。
2013/4/15(14:49)
「資料館」入口。
館内には、旧閑谷学校の貴重な資料等が展示される。
2013/4/15(14:52)
「講堂」。
「講堂」左の建物が「小斎」。
写真をクリックすると拡大写真が表示(600x450)
されます。
2013/4/15(14:54)
「椿山」入口。
「椿山」は、「旧閑谷学校」の東に隣接し、奥(北側)には
「御納所」がある。
2013/4/15(14:55)
「椿山」の中を「御納所」に向け歩く。
周りには400本近くの「藪椿」が植えられている。
2013/4/15(14:56)
「御納所」。
閑谷学校の創始者「池田光政」の供養塚で、
塚の中には、「光政」の髪、髭、爪、歯が納められている。
2013/4/15(15:01)
「岡山県青少年教育センター閑谷学校」。
「岡山県青少年教育センター閑谷学校」は、
「旧閑谷学校」の環境と伝統を保護・継承するとともに、
心身ともに健全な青少年を育成することを目的として、
昭和40年(1965)に設置され、小中学生・高校生の宿泊
研修の他、子供から企業の研修に至るまで、生涯学習の
場として広く利用されているという。
2013/4/15(15:07)
「石門」の説明板。
「石門」は、「旧閑谷学校」の駐車場から車で南に約1km
走った所にある「旧閑谷学校」の校門であるが、幾度かの
埋め立てにより、下2/3程が地中に埋もれている。
写真をクリックすると「石門」の説明が拡大表示(800x600)
されます。
2013/4/15(15:08,15:08)
「石門」。
この「石門」は、元禄10年(1697)に立てられ、当時の高さは3.8m。
門から北が、「閑谷学校」の校地であったという。

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