音戸の瀬戸公園

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2013/4/17(14:25,14:24)
「音戸の瀬戸公園案内図(左)」と「高烏台のいわれ(右)」。
「音戸の瀬戸」は、広島県のJR呉駅から南に約5.8kmの本州(警固屋)と倉橋島(音戸町)の間にある
幅が90m程しかない海峡である。
この狭い海峡は、平安時代に日宋貿易の航路として、「平清盛」が開削したといわれているが、
近年の地質調査では、「清盛」の時代には既に船舶が航行できるだけの水深があったという。
「音戸の瀬戸公園」は、この「音戸の瀬戸」の本州側にあり、3月下旬から4月上旬には、2,300本の「桜」、
4月下旬から5月初旬には、8,300本の「ツツジ」が咲く公園としても知られる。
左の写真をクリックすると「音戸の瀬戸公園」の全体地図が表示(800x600)されます。
右の写真をクリックすると「高烏台のいわれ」が表示(800x320)されます。
2013/4/17(14:25)
「高烏台」展望台からの展望図。
先ずは、高台からの景色を見るため「音戸大橋」から
北東方向に車で2.3km程走った「高烏台」を訪れた。
展望台の展望図には、左に東方向の「安芸灘大橋」。
右には南方向で「倉橋島」と橋でつながる「鹿島」が
描かれている。
2013/4/17(14:26)
「高烏台」展望台からの展望。
左から「上蒲刈島」の「七国見山(標高:457m)」と「下蒲刈島」。「下蒲刈島」の右には、うっすらと「上黒島」、「下黒島」が写る。
中央右に「情島」。「情島」の右手前には「大浦崎」が写る。「大浦埼」の奥で、標高が一番高く写る山は、「鹿島」よりも手前(南)に位置する
「倉橋島」の標高400m級の山であろう。
2013/4/17(14:28)
「平清盛公日招像」。
昭和42年(1967)に開削800年を記念して建てられる。
「平清盛」は、「音戸の瀬戸」を1日で開削するため、
夕日を招き返した(日が暮れないように、夕日を扇で
あおいで天に戻した)という伝説に基づき、「清盛」が
日没の方向に扇を向けて立つ。
2013/4/17(14:30)
「高烏台」から見る「音戸大橋」と「第2音戸大橋」。
「音戸大橋」は、手前の鉄塔と重なり分かりづらいが、
「倉橋島」側のループ橋が写る。
この「音戸大橋」は、歩行者も通行は可能なのだが、
歩道が無く、取り付け道路がループ状のため、距離が
長い上に坂道になっていることから、300年の歴史を
持つという「音戸渡船」が、現在でも運行されており、
この「渡船」は、日本一短い定期航路として知られる。
写真をクリックすると「音戸大橋」と「第2音戸大橋」の
部分を切り抜いた画像(600x450)が表示されます。
2013/4/17(14:31)
「高烏台」から見る北西方向の景色。
中央から左に続くのが「江田島」。
写真を右に外れた所に「呉港」がある。
2013/4/17(14:36,14:37)
「旧高烏砲台兵舎」。
明治の時代、日清戦争が始まるなど、「呉港」が軍事的に重要な施設となったことから、ここ「高烏台」には、
「要塞砲台」が造られた。この石造りの建物は「高烏砲台」の兵舎として建てられたという。
左の写真をクリックすると「旧高烏砲台兵舎」の案内板が表示(800x600)されます。
2013/4/17(14:49)
「つつじヶ丘」の標識。
「つつじヶ丘」は、「音戸大橋」の東(本州)側にある。
2013/4/17(14:50)
「つつじヶ丘」から見る「音戸大橋」。
写真をクリックすると拡大写真(600x450)が
表示されます。
2013/4/17(14:51)
「吉川英治文学碑」。
昭和25年(1950)「吉川英治」は、小説「新平家物語」の
取材のため「音戸の瀬戸」を訪れた。
その時、対岸の「清盛塚」に向き「君よ今昔之感如何」と
問いかけた言葉を自筆の句碑にしたのが、右の「富士型」
の石碑。左の丸い石碑は、「平清盛」に見立てたという。
2013/4/17(14:52)
「つつじヶ丘」から見る「第2音戸大橋」。
愛称「日招き大橋」。
「音戸大橋」の北側に、呉市警固屋と音戸町を結ぶ
「警固屋音戸バイパス」の一部として造られ、
平成25年(2013)3月に開通したばかりの橋であった。

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