和歌山城

「和歌山城」のページは、2部構成になっています。
本ページの下に、関連ページへのハイパーリンクがあります。

この下にある「プルダウンメニュー」が表示されない場合は、ページ最下行にあるハイパーリンクをご利用下さい。





2011/4/8(13:01)
「新裏坂登り口」近くにある案内板。
和歌山城は、徳川御三家の居城として55万
5千石の偉容を誇っていた天下の名城とある。

2011/4/8(13:01)
「新裏坂登り口」を上る。

2011/4/8(13:04)
「天守郭(曲輪)」が見えてきた。和歌山城の
「本丸」は、東の「本丸御殿」と西の「天守郭
(曲輪)」から構成され、「本丸御殿」は、
「上水道貯水池」に変わり、「天守郭(曲輪)」
も、戦火で焼失するが、昭和33年(1958)鉄筋
コンクリート造の天守が復元される。

2011/4/8(13:05)
「天守郭(曲輪)」。
「天守郭(曲輪)」は、大天守、小天守、御台所、乾櫓、二の御門櫓、楠門を多聞で連結し、楠門を閉じると要塞化する連立式天守の形態をとる。
写真右端が「大天守」。間に「多聞」を挟み、中央やや左に「楠門」。「楠門」の左が「二の御門櫓」である。
2011/4/8(13:14)
「楠門」。
天守閣二の門にあたるが、当時「総楠木造り」で
あったことから、「楠門」と呼ばれる。
2011/4/8(13:16)
「天守郭(曲輪)」の内側で見る「二の御門櫓」。
2011/4/8(13:17)
「小天守」。
「小天守」の下が、見学用の入口となっている。
「大天守」と「小天守」は連結式に建てられて
おり、「小天守」の右に「大天守」がある。
2011/4/8(13:17)
「三宝柑」。
幕末期、珍しい果物がなったので、第十代藩主
「徳川治宝」に献上したところ形状、味に優れる
として「三宝柑」と命名。「御留味柑」として
一般に栽培することを禁止したという。
これが、明治維新以降は自由に栽培できるように
なり和歌山の特産物として知られるようになった
とある。
2011/4/8(13:53)
「天守郭(曲輪)」の内側で見る「乾櫓」。
この写真からは、「大天守」等建物の中を見学した
後で撮影。「大天守」からの景色は、次のページで
紹介します。
2011/4/8(13:53)
「天守郭(曲輪)」の内側で見る「大天守」。
2011/4/8(13:57)
「まりと殿様の歌碑」。
「まりと殿様」の第5番目の歌詞を、作詞した
「西條八十」が直筆したものを歌碑にしている。
「西條八十」は、第5番目の歌詞を選んだ理由を
「紀州は好きな土地の一つだから、『紀州は
よい国日のひかり』という第5節を選んだ」と
述べたという。
2011/4/8(13:59)
「本丸御殿跡」。
この階段の上に「本丸御殿」があった。
市内小倉の「光恩寺」には、御殿の一部を移築
した「庫裏」が現存するものの、「御殿跡」には
「上水道貯水池」が設置され何も残っていない。
2011/4/8(14:03)
「銀名水」。
「日常用水」、籠城時の「非常用水」として
使われ、場内には、このような井戸が他にも
四十余ヶ所あるという。
2011/4/8(14:05)
「裏坂登り口」。
この坂を下り「二の丸広場」に出る。
2011/4/8(14:09)
「御橋廊下」。
藩主とお付きの人だけが、「二の丸」と、「西の
丸」を行き来するために架けられていたという。
約11度の角度で斜めに架かる全国的にも珍しい
構造の橋で、平成18年復元。
2011/4/8(14:12)
「御橋廊下」の近くから見上げる「大天守」。
2011/4/8(14:06)
「二の丸広場(二の丸御殿跡)」。
「二の丸」は、藩の役人が職務を司る「表」と、藩主の公邸である「中奥」と、奥女中の生活の場である「大奥」の三つの機能があったという。
「二の丸」の北東隅には「月見櫓」、北部に「物見櫓」、北西隅に「駿河櫓」を設け、それらを多聞と土塀で結んでいたという。
2011/4/8(14:10)
少し離れてみる「御橋廊下」。
「御橋廊下」の左側が「二の丸」。右側が「西の丸」。
この写真には写っていないが、中央の山の上に「大天守」が建つ。
2011/4/8(14:14)
「御橋廊下」を「西の丸」に向け渡る。
土足厳禁なので、裸足で歩くが、微妙な段差が
気になり歩きにくい。
2011/4/8(14:17)
「高灯籠」。
「御橋廊下」を「西の丸」側に出たところにある。
高さ4.15m。沖を行く船の安全を祈願する
ため、「紀淡海峡」を遠望できる「水軒御用地内」
に建てられたもので、一時は畑地に埋もれていた
ものを、昭和62年に和歌山城内に移築復元。
2011/4/8(14:17)
「御橋廊下」の「西の丸」側出入口。
2011/4/8(14:18)
「鳶魚閣」。
紀州徳川藩祖「頼宣公」が、西の丸御殿に築造
した「紅葉渓庭園」にある。
2011/4/8(14:20)
「紅葉渓庭園」にある茶室「紅松庵」入口。
2011/4/8(14:21)
「紅葉渓庭園」。
目立たぬが「鳶魚閣」の屋根部分と「御橋廊下」
の一部も見えている。
2011/4/8(14:23)
「紅葉渓庭園」入口。
2011/4/8(14:31)
「護国神社」入口の鳥居。
「護国神社」は、「和歌山城」が建つ「和歌山
公園」の南西側にある。
2011/4/8(14:34)
「護国神社」。
明治戊辰の役以降の和歌山県出身の戦死者、
自衛隊殉職者などを、日本国に殉じた英霊として
祀る。
2011/4/8(14:26)
「紅葉渓庭園(左)」と「御橋廊下」。
2011/4/8(14:36)
和歌山城石垣の「刻印」の説明版。
和歌山城の石垣のうち、2,110個に「刻印」
がある。「刻印」の種類は40種類以上。
「刻印」の目的は、諸説ありはっきりしていない
とある。
写真をクリックすると拡大写真が表示されます。
2011/4/8(14:37,14:38)
和歌山城石垣の「刻印」。
初めは半信半疑であったが、探してみると意外と簡単に見つかる。
本ページは、「和歌山城(大天守からの景色)」に続きます。
この下にあるハイパーリンクからお進み下さい。

 旅の記録(和歌山県)に戻る      和歌山城(大天守からの景色)に進む

 旅の記録に戻る    Donichi’s HomePageに戻る