徳川家霊台-女人堂

このページの写真は、降雨の中撮影していますので、
雨粒が写っていたり、レンズに雨水が着いたまま撮影している写真があります。

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2012/3/23(11:25,11:25)
「徳川家霊台入口」。
「徳川家霊台」は、「金剛峯寺」北側のバス道路を西に歩くと、右側にあり、
境内には、徳川幕府の初代将軍「家康」と2代将軍「秀忠」の霊屋が建つ。
写真では、受付のカーテンが閉められているが、「本日拝観無料」とあった。
右の写真をクリックすると「徳川家霊台」の説明が表示(600x450)されます。

2012/3/23(11:27)
「徳川秀忠霊屋」。
参道を上がると、向かって左側にある。
「家康霊屋」の前には「鳥居」が建つが、
「秀忠霊屋」にはない。

2012/3/23(11:29)
「徳川家康霊屋」。
参道を上がると、向かって右側にあり、
前には「鳥居」が建つ。
2012/3/23(11:29)
「家康霊屋(手前)」と「秀忠霊屋(奥)」。
両霊屋共、透塀に囲まれ、中を覗き見ることは
できるが、はっきりと見ることができない。
2012/3/23(11:30)
「家康霊屋」。
透塀の隅間からカメラのレンズを入れて撮影。
「秀忠霊屋」と瓜二つで見分けが付かないが、
「家康霊屋」正面の蛙股彫刻には、家康が生まれ
た年の干支「寅」が彫られているという。
写真をクリックすると拡大写真(600x450)が
表示されます。
2012/3/23(11:30)
「家康霊屋」の蛙股彫刻。
この写真では、明確に「虎」とは認識できない
ものの、「秀忠霊屋」に彫られたものと同じで
ないということは確かである。
2012/3/23(11:32)
「秀忠霊屋」。
正面の蛙股彫刻には「兎」が彫られているため、
「秀忠」は卯年の生まれではないかといわれる。
写真をクリックすると拡大写真(600x450)が
表示されます。
2012/3/23(11:32)
「秀忠霊屋」の蛙股彫刻。
耳の形からも「兎」であることが分かる。
2012/3/23(11:33)
「徳川家霊台」入口の門。
写真は、帰りに振り向いて撮影しているが、
この階段を登り、右の方向に進むと、左側に
「霊屋」が建つ。
2012/3/23(11:35)
「金輪公園」。
「徳川家霊台」を出ると、バス道路の反対側に、
「金輪公園」がある。
「金輪公園」には、「明算検校」の御廟所では
ないかといわれる「金輪塔」が建つ。
2012/3/23(11:35)
「金輪塔」の案内板。
写真をクリックすると「金輪塔」の説明が
拡大表示(600x450)されます。
2012/3/23(11:37)
「金輪塔」。
2間半四面、高さ18m。
「金輪」とは、「極限」のことで、最も優れて
いるという賛辞の言葉としてつかわれるという。
写真をクリックすると拡大写真(450x600)が
表示されます。
2012/3/23(11:43)
「女人堂」の案内板。
「金輪公園」から更に西(道は右にカーブし、
実際は北北西の方向)に400m程、坂を登った
ところにある。
写真をクリックすると「女人堂」の説明が
表示(600x450)されます。
2012/3/23(11:43)
「女人堂」。
「女人堂」は、女性のための「参籠所」であり、
明治5年(1872)に女人禁制が解かれるまでの間、
ここから先に女性が入ることは許されなかった。
写真をクリックすると拡大写真(600x450)が
表示されます。
2012/3/23(11:44)
西側から見る「女人堂」。
2012/3/23(11:46)
「お竹地蔵」。
「女人堂」の道路反対側にある。
この地蔵尊は、安政年間江戸の大地震で亡くなら
れた人々と、自分の父母の菩提のため、江戸に
住む「横山 竹」さんという女性が、30年間
身を粉にして貯えたお金で建立したという。
2012/3/23(11:49)
「女人堂」の前から東の方向を見る。
急で長い坂が「金輪公園」付近まで続く。
駐車場の状況が分からなかったため、この日は
「金剛峯寺」に近い駐車場から往復を歩いたが、
「徳川家霊台」「女人堂」共に数台分の駐車
スペースはある。オフシーズンの平日であれば、
車での移動も可能であろう。

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