金剛峯寺

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2012/3/23(12:03)
「金剛峯寺 会下門(えかもん)」。
「金剛峯寺」の正門は、南側にあるが、この日は
「女人堂」を見てからの帰りであったので、東側
に建つ「会下門」から中に入る。
「金剛峯寺」は、豊臣秀吉が亡母の菩提のために
建立した「青巌寺」と西隣にあった「興山寺」を
明治期に一本化したもので、高野山真言宗総本山
金剛峯寺の本坊が置かれた宗務上の中心地で
ある。

2012/3/23(12:05)
「金剛峯寺 主殿」。
「会下門」を入ったところで撮影。
現在の主殿は、文久3年(1863)再建。
東西30間(約60m)、南北約70mの「主殿
(本坊ともいう)」の他、「座主居間」「奥殿」
「別殿」等、境内総坪数48,295坪の広大さ
と優美さを有する。
写真をクリックすると拡大写真(600x450)が
表示されます。

2012/3/23(12:06)
「鐘楼(左)」と「金剛峯寺 正門(右)」。
「会下門」を入ると左手に建つ。
「鐘楼」は、金剛峯寺の前身「青巌寺」の時代に
造られるが、万延元年(1860)の大火で焼失。
元治元年(1864)に再建されたという。

2012/3/23(12:10)
「金剛峯寺」の主殿に入る。
2012/3/23(12:10)
「高野杉」。
高さ57m、直径2.87m、株元周囲9mと
あるが、樹齢は書かれていない。
2012/3/23(12:11)
「大広間」。
重要な儀式・法要が執り行われる場所で、
2月の常楽会(じょうらく)や4月の仏生会
(花祭り)等が行われる。
襖の絵は、「狩野法眼元信」の筆といわれる。
2012/3/23(12:13)
「駕籠」。
「正御影供(しょうみえく)」で、空海役の
「法印さん」を乗せる駕篭であろう。
2012/3/23(12:15)
「枯山水小庭」。
「主殿」と「別殿」との間にある。
2012/3/23(12:15)
「主殿」と「別殿」を結ぶ廊下。
廊下の左が「枯山水小庭」である。
2012/3/23(12:21,12:22)
「新別殿(しんべつでん)」。
昭和59年(1984)、弘法大師御入定・1150年御遠忌大法会の際に、大勢の参詣者への接待所
として新設。現在も参拝者の休憩所として使われており、お茶がサービスされる。
91畳と78畳の二間からなるが、通常は間の仕切りを取り外し、169畳の大広間として
使われているようである。
左の写真は、大広間の中央付近から東側。右の写真は西側を撮る。
2012/3/23(12:26)
「蟠龍庭(ばんりゅうてい)」。
新別殿同様に、弘法大師御入定1150年
・御遠忌大法会の際に造園され、2,340㎡の
石庭は、国内で最大級を誇るという。
2012/3/23(12:28)
「蟠龍庭(ばんりゅうてい)」。
中央右の建物は、「奥殿(おくでん)」。金剛峯寺の貴賓室として、昭和9年(1934)に建てられる。
また、写真には写らないが「奥殿」の後ろには、「松下幸之助」が寄贈した茶室「真松庵」があり、昭和46年(1971)の黒潮国体の際には
昭和天皇皇后両陛下が宿泊されたという。
2012/3/23(12:31)
「中庭」。
江戸期に造られ、当時池の周りには「高野六木
(スギ・ヒノキ・コウヤマキ・モミ・ツガ
・アカマツ)」が聳え立っていたという。
2012/3/23(12:34,12:35)
「真然大徳廟」。
「真然僧正」は、弘法大師の甥にあたり、高野山第二世として高野山を完成整備。
高野山の経営、教学、弟子育成など、多方面にわたり大師の御遺志を守り、その礎を固めたという。
左の写真をクリックすると案内板が拡大表示(600x350)されます。
2012/3/23(12:32)
「中庭」。
春は「石楠花」の花が咲き乱れ、梅雨には池の周囲に「モリアオガエル」の卵が産み付けられる。
そして、秋には「紅葉」、冬は一面の銀世界と、四季折々の風景が眺められるという。
2012/3/23(12:36)
「台所」。
多勢の僧侶の食事を賄ってきただけに、釜等も
大きく、水は湧き水を高野槇(こうやまき)の
水槽に溜め、食物は床下収蔵庫や天井から
つり下ろした台に保存したという。
2012/3/23(12:37)
「竃(かまど)」。
現在でも、重要行事の際に使用されていると
ある。
2012/3/23(12:39)
「二石釜」。
一つの釜で約7斗(98kg)、三つで二石
(280kg)、一度に2,000人分のご飯を
作ることができたという。
釜の上には、台所の神様である「三宝荒神」が
祀られている。
2012/3/23(12:42)
正面から見る「主殿」。
屋根の上に、置かれている「天水桶」は、
普段から雨水を溜めておき、火災が発生した
ときに、少しでも類焼を食い止める役割を
果たしたという。
写真をクリックすると拡大写真(600x450)が
表示されます。
2012/3/23(12:45)
「経蔵(きょうぞう)」。
延宝7年(1679)、大阪天満の伊川屋から釈迦三尊
と併せて寄進され、火災時に重要なものが焼失
しないよう、主殿とは離れた場所に建てられたと
いう。
2012/3/23(12:46)
「金剛峯寺 正門」。
金剛峯寺の建物の中では、一番古く文禄2年
(1593)に再建され、今日に至る。
正門から出入りできるのは天皇・皇族と高野山の
重職だけで、一般の僧侶は、脇の潜り戸を使用
したという。
2012/3/23(12:43)
「金剛峯寺 正門」から見る「主殿」。
左に、「経蔵」の右側半分だけが写る。中央に主殿。右に「会下門」が写る。

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