熊野速玉大社

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2019/4/24(8:38,8:40)
「熊野速玉大社」の駐車場と参道入口。
「熊野三山」と呼ばれる、「熊野本宮大社」、「熊野速玉大社」、「熊野那智大社」の中で、
最も早く「熊野権現」の称号を与えられたという「熊野速玉大社」は、
新宮市新宮の「権現山(神倉山)」の麓にあり、その境内地は、ユネスコの世界遺産
「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として登録されている。
初めは、「熊野大神」が降臨された聖地「権現山(神倉山)」の磐座(現在の、神倉神社)に
祀られていた神々を、山の麓に社殿を建てて祀ったのが「熊野速玉神社」といわれ、
神倉神社を「元宮」、熊野速玉神社を「新宮」とも呼ばれていた。
左の写真をクリックすると「熊野速玉大社」の御由緒が表示されます。
この画像は、750x1,000ピクセルあります。
御由緒を読みたいときには、表示された画像をクリックし、スクロールバーをご利用下さい。
右の写真、参道の入口の太鼓橋は「下馬橋」。大鳥居の神額(扁額)には「熊野権現」とあり、
左右の石標には、「熊野大権現(左)」、「熊野速玉大社(右)」と刻まれる。
右の写真をクリックすると近づいて撮る「鳥居」が表示(600x450)されます。
2019/4/24(8:41)
「手力男神社(左)」と「八咫烏神社(右)」。
この2社は、大鳥居を潜ると、すぐ右側に建つ。
2019/4/24(8:42)
熊野詣「奉八度の祈念碑」。
この石碑は、宝永5年(1708)、奥州南部八戸領久慈
(現在の岩手県久慈市)の「吉田金右衛門」が、
8度目の熊野詣の記念に奉納したとある。
当時、奥州から熊野までは、概ね1ヶ月。
往復で2ヶ月かかったという。
当時は、信仰心の篤さが、「伊勢に七度」、
「熊野へ三度」等と表現され、この石碑は、
庶民の間にまでも広く「熊野詣」が
行われていたことを示している。
2019/4/24(8:42)
「熊野速玉大社参詣曼荼羅」。
案内板に描かれる絵図「曼荼羅」には、
「熊野速玉神社」を中心に、新宮の素晴らしい
聖地世界が描かれており、これは、
「熊野速玉神社」を宣伝するため、
「熊野比丘尼(びくに)」と呼ばれる尼たちが、
全国を行脚した時に用いた絵図を再現したという。
写真をクリックすると「熊野速玉大社参詣曼荼羅」
を切抜く画像が表示されます。
この画像は、800x800ピクセルあります。
表示された画像をクリックすると、
更に大きな画像で見ることができます。
2019/4/24(8:43)
「熊野神宝館」。
室町時代、時の幕府(足利義満)が中心となり
制作・奉納されたと伝わる国宝の古神宝類
(祭神のために作られた品)等、熊野速玉大社に
伝わる1,000点を越える品を所蔵・展示する。
2019/4/24(8:44)
「武蔵坊弁慶像」。
「義経記」には、弁慶は熊野別当の嫡子とあり、
地元の伝承では、熊野地方で勢力を誇った
熊野三党の一つ「鈴木一族」とされている。
写真をクリックすると拡大写真(450x600)が
表示されます。
2019/4/24(8:44)
御神木「熊野速玉神社のナギ」。
平治元年(1159)、「平重盛」が社殿の落成により
手植えしたと伝わり、国の天然記念物にも
指定される御神木「梛の大樹」は、推定樹齢が、
約1,000年。国内最大の「梛」といわれる。
写真をクリックすると縦に撮る「梛の大樹」が
表示(450x600)されます。
2019/4/24(8:45)
後白河法皇御撰「梁塵秘抄」碑。
熊野に33度参詣した「後白河法皇」が編纂した
歌謡集「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」から、
「熊野へ参るには 紀路と伊勢路のどれ近し
 どれ遠し 廣大慈悲の道なれば
 紀路も伊勢路も遠からず」と刻まれる。
2019/4/24(8:46)
正面に「神門」。
神門の左手に「大禮殿」、右手に「手水舎」が建つ。
写真をクリックすると近づいて撮る「神門」が
表示(600x450)されます。
2019/4/24(8:46)
「大禮殿」。
建物配置から、「社務所」のように思うのだが、
「禮(礼)殿」の名から、「舞殿(神楽殿)」や
「祓殿」等、他の目的も兼ねた多目的施設か?。
何れにしても、筆者の臆測であり、未確認。
2019/4/24(8:49)
「拝殿」。
「神門」を入ると正面左に「拝殿」が建つ。
「拝殿」の奥には、主祭神「熊野速玉大神」と
「熊野夫須美大神」の夫婦神を祀る、
2つの神殿「速玉宮」と「結宮」が建つ。
2019/4/24(8:48)
「神門」を入ったところから見る社殿。
写真は、近距離でのパノラマ撮影のため画像が弓形に湾曲する。
「熊野速玉大社」では、「新宮十二社大権現」として、十二柱の神々を祀る神殿が建つ。
写真左端に、「授与所」と「参集殿」。
写真中央左に、「拝殿」。拝殿の奥には、夫婦神を祀る2つの神殿が建つ。
ほぼ中央の大屋根は、3つの神殿を持つ「上三殿」。
写真右には、一つ屋根の下に8つの神殿が並ぶ「八社殿」。
2019/4/24(8:50)
拝殿に掲げられる「神額(扁額)」。
「日本第一大霊験所 根本熊野権現拝殿」とある。
写真をクリックすると拡大写真(450x600)が
表示されます。
2019/4/24(8:51)
「拝殿」の中。
奥に見えているのは、「速玉宮」であろう。
2019/4/24(8:52)
「熊野御幸碑」。
「熊野」の名が広く知られるようになるのは、
上皇等による「熊野詣(熊野御幸)」が
行われるようになってからだといわれ、
その回数は、延べ140回に及び、石碑には、
訪れた皇族達の名前と回数が刻まれる。
中でも、「後白河上皇」は、天皇を辞して
上皇になってから後、毎年のように熊野を詣で、
その回数は、33回に達する。
2019/4/24(8:53)
境内西側から「八社殿」の方向を撮る。
写真をクリックすると拡大写真(600x450)が
表示されます。
2019/4/24(8:54)
境内東側から「拝殿」の方向を撮る。
この位置からだと「拝殿」の後ろに隠れていた
「結宮」と「速玉宮」の屋根が見える。
写真をクリックすると3.5倍ズームで撮る
「結宮」と「速玉宮」の屋根が表示されます。
2019/4/24(8:54)
「熊野恵比寿神社」。
境内東端(八社殿側)には、「熊野恵比寿神社」と
「新宮神社」が建つ。
2019/4/24(8:54)
「新宮神社」。
2019/4/24(8:56)
神門脇に立つ「オガタマノキ」。
案内板には、「神社では、オガタマノキを
神殿に供え、神の霊を招く習わし(招霊)があり、
古くから神社の境内に植えられている」とある。
写真をクリックすると拡大写真(450x600)が
表示されます。
2019/4/24(8:57)
「拝殿」。
「拝殿」の前で、神職と巫女さんが何やら
話をする姿が、いい雰囲気を醸しだしている。
写真をクリックすると拡大写真(600x450)が
表示されます。
2019/4/24(8:58)
「神門」を出て、参道を歩く。
2019/4/24(8:58)
「熊野稲荷神社」。
右に写るのは、駐車場。
2019/4/24(9:00)
「佐藤春夫記念館」。
「佐藤春夫」は、明治末期から昭和まで活躍した
小説家・詩人。
明治25年(1892)、新宮町(現・新宮市)に生まれ、
初代「新宮市名誉市民」の称号を贈られている。
記念館は、吹き抜けのサンルームや応接間を持つ
洋館で、昭和39年(1964)、春夫が亡くなるまで
過ごした、東京都文京区の邸宅を移築したという。

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