壇上伽藍

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2012/3/23(13:23,13:26)
「壇上伽藍(だんじょうがらん)」の入口と「高野山の草創」の案内板。
「壇上伽藍」は、「奥之院」と共に高野山の二大聖地といわれ、「弘法大師御廟」を、
信仰の源泉に、「壇上伽藍」は、修学の場所として、「真言密教」の教えと伝統を今日に伝える。
また、高野山を開創された折、大師が実際に土を踏みしめ、塔、お堂の建立に心血を注がれたのが、
「壇上伽藍」であったという。
「壇上伽藍」を頭として、「蓮花院(金剛峯寺の東側)」までの形が、「龍」が臥している形に
似るといわれるが、この時、左写真の道が「龍」のお腹の位置にあたることから、
この道が、「蛇腹路(じゃばらみち)」と呼ばれる。
この「蛇腹路」を入った先に「高野山の草創」と書かれた案内板がある。
右の写真をクリックすると、「高野山の草創」の案内板が拡大表示(800x450)されます。

2012/3/23(13:28)
「東塔(とうとう)」。
大治2年(1127)の創建だが、天保14年(1843)に
焼失。140年後の昭和59年(1984)再建された
という。
「壇上伽藍」に建つ、ほとんどの建物は、
過去の大火により幾度となく焼失。
再建されたものである。
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2012/3/23(13:29)
「三昧堂(さんまいどう)」。
延長7年(929)に建立され、現在の建物は、
文化13年(1816)再建。
このお堂で「理趣三昧」という儀式が執り行われ
たことから「三昧堂」と呼ばれるようになったと
いう。
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2012/3/23(13:30)
「西行櫻(さいぎょうざくら)」。
「三昧堂」修造にかかわった「西行法師」が、
お堂修造の記念に植えたという。
2012/3/23(13:31)
「大会堂(だいえどう)」。
現在の建物は嘉永元年(1848)再建。
本尊は「阿弥陀如来」。脇侍として「観世音
菩薩」と「勢至菩薩」が祀られている。
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2012/3/23(13:32)
「愛染堂(あいぜんどう)」。
建武元年(1334)に建立。現在の建物は、嘉永元年
(1848)再建。
本尊は「愛染明王」で、「後醍醐天皇」の御等身
といわれる。
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2012/3/23(13:33)
「不動堂(ふどうどう)」。
建久8年(1197)建立。現在の建物は14世紀前半
に再建されたという。
当初は「阿弥陀堂」であったというが、後に
「不動明王」を本尊とし、運慶作の「八大童子」
が奉安されるが、現在、この「八大童子」は、
「霊宝館」に収められている。
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2012/3/23(13:36)
「大塔(だいとう)」。
「弘法大師」「真然大徳」の二代に渡り、816
~887年頃に完成。
現在の建物は、昭和12年(1937)に再建。
鉄骨・鉄筋コンクリート造りだが、外装は木材で
朱塗り。高さ約48.5m、幅約23.5m。
「弘法大師」は、この「大塔」を真言密教の根本
道場のシンボルとして建立したため、「根本大塔
(こんぽんだいとう)」とも呼ばれる。
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2012/3/23(13:37)
「大塔の鐘」。
当初の鐘は、「弘法大師」が発願。
「真然大徳」の時代に完成したと伝えられる。
現在の銅鐘は、天文16年(1547)完成。
日本で四番目に大きな鐘(直径:2.12m)で
あったことから「高野四郎」とも呼ばれる。
現在でも毎日5回、高野山内に時刻を知らせる。
2012/3/23(13:40,13:43)
「御影堂(みえどう・みえいどう)」。
弘法大師空海の御影(肖像画)がお祀りされているので、「御影堂」と呼ばれる。
現在の建物は、嘉永元年(1848)、「紀伊大納言」が一千両を寄進して再建されたものという。
元は、お大師さまの持仏堂として建立され、高野山の最重要聖域として、限られた方しか
堂内に入ることは許されなかったというが、現在では、旧暦3月21日に執行される「旧正御影供」の
前夜に執行される「御逮夜法会(おたいやほうえ)」の後に外陣への一般参拝が許されている。
そして、この「御逮夜(おたいや)」では、参詣者の手によって、伽藍全体が花とろうそくで
埋め尽くされるという。
左の写真はクリックすると拡大写真(600x450)が表示されます。
2012/3/23(13:44)
「准胝堂(じゅんていどう)」。
天禄4年(973)頃に建立。現在の建物は、
明治16年(1883)再建。
毎年7月1日に、准胝堂陀羅尼会(じゅんていどう
だらにえ)と呼ばれる法会が行われる。
本尊は「准胝観音」で、弘法大師が出家得度
(お坊さんになるための儀式)を行う際の本尊
として自ら造立されたと伝えられる。
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2012/3/23(13:45)
「孔雀堂(くじゃくどう)」。
正治2年(1200)落慶。現在の建物は、昭和58年
(1983)、弘法大師御入定1,150年御遠忌記念
事業として再建される。
本尊は、快慶作といわれる「孔雀明王像」で、
重要文化財に指定され、現在は「霊宝館」に収め
られている。
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2012/3/23(13:47)
「西塔(さいとう)」。
当初「大塔」と合わせ、二基一対として建立する
計画であったが諸般の事情により建設が遅れ、
仁和2年(886)、「真然大徳」により建立。
現在の塔は、天保5年(1834)再建。
擬宝珠(ぎぼし)高欄付多宝塔で、
高さは27.27m。
「金剛界大日如来」と「胎蔵界四仏」が
奉安される。
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2012/3/23(13:48)
「山王院横の鐘楼」。
由緒ありそうだが、詳細不明。
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2012/3/23(13:50)
「御社(みやしろ)」。
弘法大師が、弘仁10年(819)に山麓の「天野社」
から地主神として勧請し、高野山の鎮守としたと
いわれる。
現在の社殿は、文禄3年(1594)の再建。
2012/3/23(13:50)
「山王院(さんのういん)」。
藤原時代に「御社(みやしろ)」の拝殿として
建立され、現在の建物は、文禄3年(1594)再建。
桁行21.3m、梁間7.8m。
毎月16日には明神様への御法楽として、
月次門徒・問講の法会が行われている。
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2012/3/23(13:54)
「閼伽井門」とある。
詳細不明であるが「あかいもん」と読むので
あろう。
2012/3/23(13:55)
「六角経蔵(ろっかくきょうぞう)」。
平治元年(1159)、「鳥羽法皇」の皇后であった
「美福門院」が、「鳥羽法皇」の菩提を弔う
ため、紺紙に金泥で浄写された一切経を納める
ために建立したという。
現在の建物は、昭和9年(1934)再建。明治17年
再建の経蔵は、お堂全体を回すことができたと
いうが、現在は周囲についている把手のみが回る
という。
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2012/3/23(13:56)
「登天の松(とうてんのまつ)」と
「杓子の芝(しゃくしのしば)」。
久安5年(1149)の話だという。高野山「明王院」
の「如法上人」というお坊さんが、この松の木の
上から、弥勒菩薩の浄土へと昇っていかれ、
この松が「登天の松」と呼ばれるようになる。
また、「如法上人」の急な登天にあわてた、
弟子のお坊さんは、ご飯を器に盛るための杓子を
持ったまま「如法上人」の後を追ったという。
その杓子が「登天の松」の周囲に生えていた
芝の上に落ち、この芝生を「杓子の芝」と呼ぶ
ようになったという。
2012/3/23(13:58)
「三鈷の松(さんこのまつ)」。
真言密教を広めるためにふさわしい場所を求め、
弘法大師は唐より日本へ向けて「三鈷杵(さん
こしょう)」と呼ばれる法具を投げた。
後に大師が高野山を訪れたところ、この松に
「三鈷杵」が引っかかっていたという。
「三鈷杵」と同じ三葉のこの松は、現在「三鈷の
松」として祀られ、参詣者は、縁起物として松の
葉を持ち帰り、御守りとして大切にするという。
2012/3/23(13:59)
「金堂(こんどう)」。
弘仁10年(819)に創建。当時は、講堂と呼ばれ
たが、現在でも、高野山全体を一つの「大寺」と
したときの、総本堂であり、高野山の重要行事の
ほとんどは、「金堂」にて執り行われている。
現在の建物は、昭和7年(1932)完成。様式的には
木造仕上げの純日本建築だが、鉄骨鉄筋コンク
リート構造になっているという。
梁間23.8m、桁行30m、高さ23.73m。
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2012/3/23(14:08)
「蓮池(はすいけ)」。
昭和の頃までは美しい「蓮(はす)」が咲き
誇っていたというが、現在は「蓮」のない
「蓮池」になっている。
江戸時代の中頃には「金堂池」と呼ばれていた
記録もあり、昔から蓮が自生していたものでは
なく、池の整備などに合わせて蓮が植えられた
のではないかという。
2012/3/23(14:04)
「金堂」東側から見る「壇上伽藍」。
左に「大塔の鐘」。中央に「金堂」。右に「大塔」が写る。
「金堂」の左、工事の仮囲いで温室のように見えるのは、天保14年(1843)の大火により焼失。
現在、高野山開創1200年記念大法会の記念事業として、再建工事が進められている「中門」である。
また、「金堂」と「大塔」の間には、小さく「御影堂」が見えている。
地図に定規を当て図ると、「壇上伽藍」で建物が建つ部分は、東西250~300m。南北は100~150m程であろう。
この広さ(狭さ)の中に、国宝の「不動堂」を含め、境内には19棟の建造物が建つ。やはり「高野山」は、日本一の霊場である

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