西野水道

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2014/10/28(15:47,16:00)
二代目「西野水道」と「西野ほりぬき公園」の事務所。
左の写真、中央左に写るトンネルが、二代目の「西野水道」。中央右の建物が「西野ほりぬき公園」の
事務所である。なお、初代「西野水道」は事務所の裏、写真の更に左には、三代目の「西野水道」がある。
西野水道(にしのすいどう)は、琵琶湖の北端に近い、長浜市高月町西野にある、「余呉川(よごがわ)」の
放水路である。
三方を山に、一方を「余呉川」に囲まれた西野集落は、古くから大雨の度に浸水や飢饉に悩まされてきた。
この状況を打破するには、山を掘り抜き水を琵琶湖に流すしか方法はないと考えた充満寺住職「恵荘上人」は、
能登と伊勢から石工を呼び、6年の歳月と1,275両の私財を投じ、弘化2年(1845)、長さ220m、幅1.2m、
高さ2mの岩穴を完成させたのである。
現在は、役目を三代目の放水路に譲るが、初代の放水路は観光地化もされず、当時の様子を残したまま
保存されており、隣接する「西野ほりぬき公園」の事務所には、見学用の「長靴」「ヘルメット」「懐中電灯」が
5人分用意され、これらを無料で借りることができる。
右の写真をクリックすると「事務所内部」の写真(600x450)が表示されます。
2014/10/28(15:50)
「西野ほりぬき公園」の事務所脇の案内板。
写真左の案内板には「西野水道(初代)の年譜」、
右の案内板は「西野周辺地形図」とあるが、
初代から三代目の各年代毎に「西野水道」の
概要が書かれている。
写真をクリックすると、右の案内板「西野周辺地形図」
が表示(800x600)されます。
2014/10/28(15:51)
「西野ほりぬき公園」の石碑。
公園事務所の裏にあり、写真左に「皇太子浩宮殿下
行啓記念碑」、中央に「西野水道記念碑」、
右に「西野水道のうた」と3つの石碑が並ぶ。
初代「西野水道」は、この写真の右側にある。
2014/10/28(15:51,15:52)
初代「西野水道」東側の入口。
ほとんど当時のままなのであろう。ここに初代「西野水道」があるということを知らなければ、気づかずに
通り過ぎるであろうし、ましてや中に入れるなどとは思わないであろう。
「西野水道の年譜」によると、最初は能登の石工が西(琵琶湖)側から掘り始めたが、固い岩盤に突き当たり断念。
東側から掘り進むが、これも固い岩盤に策は尽き、石工は能登に帰郷してしまったという。
次に、伊勢の石工に依頼し掘り進むも、落盤が頻発。山の神を勧請し工事の無事を祈り、「井伊(彦根)藩」より
枠木、人夫の援助を仰ぎ、ようやく水道は貫通。
村人は躍り上って喜び、あげくには遠近よりの見物人のため怪我人まで出る騒ぎとなったとある。
左の写真をクリックすると「西野水道(初代)」の年譜(960x600)が表示されます。
2014/10/28(15:52)
初代「西野水道」東側の入口から内部を撮る。
写真をクリックすると、少し奥に入って撮る
写真(600x450)が表示されます。
2014/10/28(15:53,15:55)
初代「西野水道」の中。
反対側から人が来たら、どちらかが体を横にしないとすれ違えないほどの幅しかない。
その上に真っ暗闇である。水道は途中で折れ曲がっているため、出口の明かりも見えない。
闇に目が慣れてなかったのか、手持ちの懐中電灯では、視野が狭い上に光量不足であった。
また、使用しているカメラは、暗い所では赤外線を照射して距離を測定するのだが、どうしてもピントが合わない。
おそらく、入口から20m程度しか進んでいなかったと思うのだが、この場所で断念。
二代目「西野水道」を通り、西(琵琶湖)側に回ることとした。
どちらの写真もクリックすると拡大写真(450x600)が表示されます。
2014/10/28(15:56)
初代「西野水道」東側の入口を上の道から撮る。
道沿いには、「西野水道」の石柱や石碑、案内板などが
設置されている。
写真をクリックすると上の道から撮る初代「西野水道」
東側の入口(450x600)が表示されます。
2014/10/28(15:57)
「古保利古墳群」と「西野水道」の案内板。
案内板には「水道は、近江の青の洞門とも呼ばれる」
とある。
ここで例えられる、大分県の景勝地「本耶馬溪」にある
「青の洞門」は、人や馬が川に転落する事故の絶えない
交通の難所に「禅海和尚」が独りで鑿(のみ)と
鎚(つち)を手に、約30年の歳月をかけて掘り抜いた
隧道で、全長が約342m。その内トンネル部分は、
「西野水道」より短いものの、約144mある。
写真をクリックすると「西野水道」の
案内板(800x600)が表示されます。
2014/10/28(15:57)
「古保利(こほり)古墳群」の案内板。
「古保利古墳群」は、「西野水道」の真上にあるのだが、
その規模は南北約3kmに渡り、古墳の数は判明して
いるだけでも132基。その種類は前方後円墳を始め、
古墳時代に造られた基本的な形の全てが揃っている。
本ページでは、この案内板しか紹介できないが、
興味のある方は、この内容をお読みになって下さい。
写真をクリックすると「古保利古墳群」の案内板が
表示されます。
この案内板は、1,200x700ピクセルあります。
案内板の文字を読みたいときには、表示された画像を
クリックし、スクロールバーをご利用下さい。
2014/10/28(15:58)
三代目「西野水道」の東側。
北から南へと順番に掘られた「西野水道」は、
この三代目「西野水道」が一番南側に位置し、
昭和55年(1980)に完成。規模は、長さ252m、
幅高さ共に10.3mである。
「余呉川」の水を「琵琶湖」に流す現役の水道であり、
トンネルの中に入ることはできない。
2014/10/28(15:59)
「西野ほりぬき公園」駐車場から見る「伊吹山」。
写真中央右奥に「伊吹山(標高:1,377m)」、
左手前の広場が「西野ほりぬき公園」の駐車場である。
写真をクリックすると、3.5倍ズームで撮る
「伊吹山」が表示(600x450)されます。
2014/10/28(16:01)
二代目「西野水道」の東側。
二代目「西野水道」は、人の通り抜けができる。
照明設備はないが、入口に「諸車通行禁止」の標識が
掲げられるほどに幅は4.5mあり、直線で反対側まで
見通せることから、懐中電灯なしでも歩ける。
写真をクリックすると近づいて撮る二代目「西野水道」の
東側入口が表示(600x450)されます。
2014/10/28(16:02)
二代目「西野水道」の東側の入口。
琵琶湖側の出口も見えている。
2014/10/28(16:02)
二代目「西野水道」の中。
水道の長さ245m、幅4.5m、高さ4mである。
道は舗装され、入口の標識と車止めのブロックが
なければ、悪意のない観光客でも、躊躇することなく
車で中に入ってしまうであろう。
2014/10/28(16:05)
二代目「西野水道」の中から見る「琵琶湖」側出口。
2014/10/28(16:06)
初代「西野水道」の西(琵琶湖)側。
二代目「西野水道」を出ると、すぐ北側にある。
2014/10/28(16:06,16:07)
初代「西野水道」の西(琵琶湖)側から中を撮る。
初代「西野水道」の西(琵琶湖)側は、崩落防止の工事がされている。
右の写真で、天井部分に灯りのようなものが写るが、これは光が反射したものであり、トンネル内に
照明設備はない。
右の写真をクリックすると拡大写真(450x600)が表示されます。
2014/10/28(16:09)
初代(左)と二代目「西野水道」(右)。
写真の右側には三代目の「西野水道」もあり、
琵琶湖側では、「西野水道」の初代から三代目が
北から南へと並ぶ姿を見ることができる。
2014/10/28(16:10)
三代目「西野水道」の西(琵琶湖)側。
「トンネル内立入禁止」の標識には、「トンネル内は
急勾配で、流れも早く大変滑りやすく危険」等と
書かれる。
2014/10/28(16:10)
「西野水道」の西側で見る「琵琶湖」。
ちょうど逆光の時間帯で、「琵琶湖」に浮かぶ小島が
シルエットで写る。
写真をクリックすると拡大写真(600x450)が
表示されます。
2014/10/28(16:11)
三代目「西野水道」の西(琵琶湖)側。
地図を見ると、「余呉川」の水は、最終的には更に南の
「余呉川大橋」の下を通り「琵琶湖」に流れ出る。
また、上流(北)にある「余呉湖」からは、
直接「琵琶湖」へと流す「飯浦送水隧道」もあるのだが、
この日見た感じでは、三代目「西野水道(西野放水路)」
からも水は常時流れ出ているようであった。
2014/10/28(16:12)
再び二代目「西野水道」の中を歩き、東側に戻る。
2014/10/28(16:16)
二代目「西野水道」の記録(銘板)。
二代目「西野水道」の東側にあり、昭和22年2月起工、
昭和23年3月貫通、昭和25年3月竣功等と刻まれる。

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