明治村
(3丁目)

2015/10/26(10:13~10:49)
「明治村3丁目」。
本ページで紹介する建物等については、
地図上に書かれる番号を
赤い丸 で囲んでいます。
また、本文中では、建物等の名称の前に、地図上に
書かれる番号を
赤い数字 で記述しています。
画像をクリックすると「明治村3丁目」の地図が
拡大表示(743x650)されます。
なお、この地図は、「SL東京駅」で撮影した案内板から
該当部分を切り抜いています。
また、建物などの説明内容は、「SL東京駅」で購入した
「博物館明治村ガイドブック」を参考にしましたが、
この内容については、「博物館明治村」のHPにある
「エリア別建造物」のページにも掲載されています。
2015/10/26(10:13)
京都市電「京都七条駅」。
「京都七条駅」は、2丁目と3丁目の境にあり
「京都七条巡査派出所」前の線路を渡り、
2丁目から3丁目(写真左から右)に入る。
2015/10/26(10:14)
(25) 「北里研究所本館・医学館」。
 ・旧所在地:東京都港区白金
 ・建設年:大正4年(1915)
 ・解体年:昭和54年(1979)
 ・移築年:昭和55年(1980)
日本の細菌学の先駆者「北里柴三郎」が建てた
研究所で、ドイツバロック風を基調に八角尖塔を頂く
木造総二階建の建物である。
廊下を南側にし、研究室は顕微鏡観察のため、
光の変化の少ない北面に配置している。
2015/10/26(10:16,10:22)
(68) 「芝川又右衛門邸」。
 ・旧所在地:兵庫県西宮市上甲東園
 ・建設年:明治44年(1911)
 ・解体年:平成7年(1995)
 ・移築年:平成19年(2007)
「芝川又右衛門」の先代は、明治13年(1881)の日本持丸長者鑑に、名を連ねた大阪の豪商であった。
「芝川又右衛門」は、この建物を別荘として建て、関西財界人との交友の場としたという。
以後、何度かの増改築が行われ、昭和2年(1927)に現在の姿となるが、平成7年(1995)1月の
阪神大震災で被害を受け、その年の秋に解体されたという。
2015/10/26(10:21)
(31) 「長崎居留地二十五番館」。
 ・旧所在地:長崎県長崎市南山手町
 ・建設年:明治22年(1889)
 ・解体年:昭和41年(1966)
 ・移築年:昭和41年(1966)
長崎に3ヶ所あった外国人居留地(東山手、南山手、
大浦)の中で「南山手」に建てられた二十五番の
建物で、三方にベランダを廻らし、各室に暖炉を
設けるなど典型的な居留地建築だという。
建物入口に、カラーコーンが置かれているが、
この日は、工事中のため、建物の中に入ることは
できなかった。
2015/10/26(10:25)
案内板には「入鹿村古墳」とある。
直径15mほどの円墳で、横穴式石室が開口する
というが、詳細は未確認。
2015/10/26(10:27)
(27)西園寺公望別邸「座漁荘」。
 ・旧所在地:静岡県清水市興津清見寺町
 ・建設年:大正9年(1920)
 ・解体年:昭和45年(1970)
 ・移築年:昭和46年(1971)
明治39年(1906)、「伊藤博文」の後を受け、
「政友会」を率いて、内閣を組織した「西園寺公望」が、
政治の第一線から退いた後、清水港の近くの海岸に
建てた別邸である。
「坐漁荘」の名は「何もせず、のんびり坐って、
魚を捕って過ごす」という意味を込めたという。
2015/10/26(10:29)
(26)幸田露伴住宅「蝸牛庵」玄関側。
 ・旧所在地:東京都墨田区東向島
 ・建設年:明治初年(1868)代
 ・解体年:昭和44年(1969)
 ・移築年:昭和47年(1972)
「尾崎紅葉」と共に「紅露時代」と呼ばれ、
一世を風靡した「幸田露伴」が、明治30年(1897)から
約10年間を、この家で過ごしたという。
また、「やどかり」のように幾度となく住まいを変えた
「露伴」は、自分の家を「かたつむりの家(蝸牛庵)」と
呼んだという。
2015/10/26(10:30)
(26)幸田露伴住宅「蝸牛庵」庭側。
「東向島」には、江戸時代から豪商の寮(別邸)や
下屋敷が多く、この建物も、廊下を軸に玄関、和室、
付書院のある座敷が、広い庭に自由に延び拡がる
ように配されている。
2015/10/26(10:34)
(32)「神戸山手西洋人住居」。
 ・旧所在地:神戸市生田区山本通
 ・建設年:明治20年(1887)代
 ・解体年:昭和41年(1966)
 ・移築年:昭和44年(1969)
「長崎居留地二十五番館」と同じ頃に建てられたが、
こちらは本格的な西洋館になっている。
建物の沿革ははっきりとせず、当初は外国人が
住んでいたと思われるが、明治29年(1896)には、
日本人「増田周助」の所有であったとの記録が
残るという。
2015/10/26(10:49)
(33)「宗教大学車寄」。
 ・旧所在地:東京都豊島区西巣鴨
 ・建設年:明治41年(1908)
 ・解体年:昭和43年(1968)
 ・移築年:昭和55年(1980)
この高さ6.9mの車寄せは、一文字型の大きな
建物であった私立宗教大学(現大正大学)本館の
正面にあったという。
明治村では、本館がなくなることを惜しみ、本館の
俤(おもかげ)を残す車寄部分を解体・保存したという。
この写真は、「市電品川燈台駅」から4丁目に向かう
途中で撮影のため、撮影時刻が前後しています。
2015/10/26(10:36)
「神戸山手西洋人住宅」から見る「宗教大学車寄」と「入鹿池」。
2015/10/26(10:39)
(29)「品川燈台」。
 ・旧所在地:東京都港区品川第二台場
 ・建設年:明治3年(1870)
 ・解体年:昭和32年(1957)
 ・移築年:昭和39年(1964)
この燈台は品川沖の第2台場の西端に立てられ、
明治3年(1870)初点燈。石油による光で100燭光。
光は、約18km先まで届いたという。
また、「観音埼」、「野島埼灯台」は、関東大震災により
倒壊したため、現存するわが国最古の洋式燈台である。
2015/10/26(10:39)
「品川燈台」横にある「霧砲」。
 ・旧設置場所 中国大連口 南三山灯台
 ・設置年:明治38年(1905)
「大砲」ではない。「霧砲」は、燈台の光の見えない
濃霧時に船舶航行の安全を確保する装置であり、
火薬を爆発させ大きな音で船舶に陸地があることを
知らせた。
2015/10/26(10:40)
「品川燈台」から見る「入鹿池」。
「入鹿池」は、ワカサギ釣りのメッカだという。
池には、釣りを楽しむボートが浮かぶ。
写真をクリックすると5.75倍ズームで撮る
写真(600x450)が表示されます。
2015/10/26(10:40)
「品川燈台」から見る「入鹿池」。
「入鹿池」は、寛永9年(1632)に着工し、翌年には完成させたという人工の農業用「ため池」で、
「犬山市」を始め、「小牧市」や「丹羽郡」の町へと灌漑用水がのびている。
2015/10/26(10:44)
(30)「菅島燈台附属官舎」。
 ・旧所在地:三重県鳥羽市菅島町
 ・建設年:明治6年(1873)
 ・解体年:昭和38年(1963)
 ・移築年:昭和39年(1964)
「菅島燈台」は、伊勢湾の入口、鳥羽沖合の「菅島」に
立てられていた。
明治初期の洋式燈台は、外国人技術者により
立てられたが、燈火の管理も外国人により行われた
ため、付属官舎も洋式住宅が建てられたという。
2015/10/26(10:38)
「菅島燈台付属官舎」前の「日時計」。
燈台では、夕方の点灯、明け方の消灯の際に正確な
時刻を知るため、「日時計」は必需品であった。
この「日時計」は、「菅島燈台」で使用されていた
「日時計」の複製品だが、実物は、明治村1丁目にある
(13)三重県庁舎内「明治の時計」展示室にて
展示されている。
2015/10/26(10:45)
(24)「京都市電」。
 ・車両製造年:明治43~44年(1910~1911)
 ・動態展示開始年:昭和42年(1967)
写真は、京都市電「品川燈台駅」にて撮影。
わが国最初の市内電車は、明治28年(1895)に
開業した京都市電「伏見線」である。
この年、京都で開催された「第4回内国勧業博覧会」に
向けて敷設・開業したもので、電車に使用する電力は、
琵琶湖からひかれる疏水を有効利用した日本最初の
水力発電により供給されたという。
また、人が多く危険な場所では、「告知人」と呼ばれる
12~15歳の少年が、電車から飛び降りて、
電車の先を走りながら注意を促したという。
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