和田峠

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2010/10/28(9:39)
「殉職警察官近藤谷一郎巡査之碑」。
明治22年(1889)、上田警察署丸子分署に勤務
していた、「近藤谷一郎巡査」は、窃盗犯人を
「下諏訪警察分署」に護送する途中、近くの
「谷川」で犯人と格闘となり、腹部を刺され殉職
(享年22歳)したという。

2010/10/28(9:39)
「接待(和田峠施行所)」跡。
平均すると2里程度の間隔で「宿場町」が置かれ
た「中山道」であるが、和田峠の前後には、
江戸側の「和田宿」と京都側の「下諏訪宿」と、
その間隔は5里半弱と長い上に、冬季の降雪も
多く、中山道最大の難所であった。このため、
「和田宿」と京都側の間に設けられた「避難所」
や「茶屋」の中の一つである。

2010/10/28(9:41)
「中山道」の石碑と説明版。
「接待(和田峠施行所)」は、江戸呉服町の豪商
「はせや与兵衛」が、旅の難儀を助けようと
金千両を幕府に寄付。その金の利子百両を、
碓氷峠の「坂本宿」と、この「和田宿」に二分
し、文政11年(1828)に設置された施行所で、
冬季に峠を越える旅人には「粥」と「焚火」を。
牛馬には、年中子桶一杯の「煮麦」を施行。
後の嘉永5年(1852)現在地に再建され、
明治3年まで続けられたとある。

2010/10/28(9:49)
「東餅屋のドライブイン」。
ここでしか食べられないという、野沢菜漬の
添えられた「力餅」が名物である。
看板にある「黒耀石」は、石器時代に使われた
石器素材で、霧ヶ峰周辺や和田峠は、後期旧石器
時代や縄文時代の代表的産地であり、現在でも
地元名産の石材として扱われ、眼球や心臓、神経等
の手術でメスや剃刀として使われる他、研磨され
て装飾品や宝飾品として用いられている。
2010/10/28(9:51)
「和田峠トンネル(国道142号旧道)」北側。
トンネルの幅は狭いが、信号があり、「片側交互
通行」になっているので、対向車を心配する必要
はない。
2010/10/28(9:53)
「和田峠トンネル(国道142号旧道)」南側。

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