震災遺構
「石巻市立大川小学校」

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2019/10/17(7:12,7:13)
震災遺構「石巻市立大川小学校」の玄関と校門。
石巻市立「大川小学校」は、河口から内陸に約3.8km離れた石巻市釜谷地区にあったが、
平成23年(2011)の東日本大震災では、地震発生から50分後、海から直接ではなく、
新北上川(追波川)を遡上してきた津波が、堤防を越え小学校を直撃。
当時の在学児童108名の内3分の2にあたる74名が犠牲(他にも教職員が10名)となり、
学校管理下では、戦後最悪の惨事となった。
この惨事では、学校側の責任が裁判で争われるなど、学校の防災体制を見直すきっかけとなった。
また、平成28年(2016)からは、(震災の教訓を後世に伝承しようと、)児童遺族らでつくる
「大川伝承の会」による「語りべ活動」が続けられ、学校の防災対策を学ぶ場として、
全国各地から多くの教育関係者らが、この地を訪れている。
左の写真は、「アッセンブリホール」。円柱形の部分は「ステージ」。
校舎への入口(玄関)は、「アッセンブリホール」の右側にある。
右の写真は、震災後に移動された「校門」と献花台。
左の写真をクリックすると震災前の「校門」の様子等が掲示されるパネル(960x650)が表示されます。
右の写真をクリックすると犠牲者数など震災に関する数字が書かれたパネル(960x650)が表示されます。
参考:宮城県が平成16年(2004)に策定した「津波浸水域予測図」では、「津波は海岸から3km以内に
   収まる」とされていた。
   このため、河口から3.8km離れた「大川小学校」では、津波の到達が想定されておらず、
   周辺住民の避難先も「大川小学校」に指定され、学校に避難した地域住民も犠牲になっている。
2019/10/17(7:13)
西側から見る校舎全体。
写真左から、「アセンブリホール」「玄関」
「円形校舎」。
建物手前には、移動された「校門」や
献花台等がある。
なお「大川小学校」は、当初存続の計画で、
仮設校舎により授業を行っていたが、
児童数の減少により、仮設校舎のあった
「石巻市立二俣小学校」に統合され、
平成30年(2018)に閉校。
写真の校舎は、震災遺構として保存される
ことになった。
写真をクリックすると拡大写真(600x450)が
表示されます。
2019/10/17(7:16)
校庭(南)側から見る大川小学校。
写真左に、新北上大橋、ほぼ中央に校舎、その右に、倉庫、体育館跡と屋外ステージ。
東日本大震災で、新北上川(追波川)を遡上してきた津波は、海岸にあった10万本の「松」をなぎ倒し、
新北上川の上流へと運ぶ。運ばれた「松(流木)」が新北上大橋に張り付き、津波をせき止めたことで、
あふれ出した水が堤防を越えて、大川小学校に流れ込み大惨事に至る。
パノラマ写真をクリックすると津波が襲ってきた方向(水色の矢印)と、
児童たちが移動したルート(黄色の点線)などが記載されたパネル(960x650)が表示されます。
2019/10/17(7:16)
校庭(南)側から見る校舎。
中央の円形建物(以降、円形校舎)には、
普通教室4室とプレイルームがあった。
写真をクリックすると拡大写真(600x450)が
表示されます。
2019/10/17(7:17)
円形校舎の普通教室。
むき出しになった鉄筋。壁には黒板が残る。
写真をクリックすると拡大写真(600x450)が
表示されます。
2019/10/17(7:20)
円形校舎の屋根に残る「スピーカー」。
津波は、屋根まで達し、「スピーカー」は、
津波の力で潰され、ひしゃげている。
写真をクリックすると6.5倍ズームで撮る
「スピーカー」が表示(600x450)されます。
2019/10/17(7:20)
「弓形校舎」。
弓形校舎の1階には、職員室や家庭科、理科室など。
2階には、7室の普通教室と資料室などがあった。
津波が引いた後には、弓形校舎の屋根の上には、
流された「和太鼓」が残されていた。
写真をクリックすると震災前後の写真を掲載する
パネル(960x600)が表示されます。
表示される写真には、屋根の上に運ばれた
大量の瓦礫や「和太鼓」の様子が写る。
2019/10/17(7:22)
「野外ステージ」。
屋外ステージの壁には、卒業制作の絵が描かれる。
奥の崖には、「津波到達点」を示す標識が立ち、
標識のすぐ上は、幅5m長さ70mの舗装された
平地(コンクリートたたき)になっている。
後に、「この崖に逃げれば、多くの人が助かった」
等と非難されたが、これは、結果論である。
当時の「危機管理マニュアル」には避難先として、
「近隣の空き地や公園等」と記載があるのみで、
具体的な場所の記載がなかった。
このことから、学校関係者や地元区長達の
話し合いの結果、「山では、山崩れや倒木の恐れが
ある」ということになり、新北上大橋のたもとで、
堤防よりも高い位置にある「三角地帯」へ
避難することになったという。
写真をクリックすると「津波到達点」を示す標識の
周辺を切抜く画像(600x450)が表示されます。
2019/10/17(7:23)
体育館跡前から見る円形校舎と弓形校舎。
石巻市では、校舎全体を震災遺構として保存。
校庭や周辺全体には、「桜」を植栽。
芝生や花畑などで整備し、多くの犠牲者を悼む
慰霊・追悼の場とする計画(2021年3月末完成
予定)だという。
写真をクリックすると震災前の大川小学校全体の
写真を掲示するパネル(800x500)が表示されます。
2019/10/17(7:25)
崩れた「渡り廊下」。
渡り廊下は、2階の教室とプール・体育館を
結んでいた。
写真をクリックすると拡大写真(450x600)が
表示されます。
2019/10/17(7:26)
「弓形校舎」の南側。
渡り廊下は、右上の開いた部分に繋がっていた。
2019/10/17(7:27)
「倉庫」と崩れた「渡り廊下」。
中央の建物は「倉庫」。
体育館は、津波によりほぼ流失したが、
倉庫の右側に、「体育館」の一部が残る。
写真をクリックすると位置を変えて撮る
「体育館跡」が表示600x450)されます。

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