東日本大震災後の
「田老町」

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東日本大震災から7ヶ月後と3年2ヶ月後
岩手県宮古市田老地区は「津波太郎」の異名をつけられるほど、
古来より津波による被害が多く、村がほぼ全壊という記録は、過去に1度だけではない。
江戸時代初期の「慶長三陸地震津波」では、村がほぼ全滅。
明治29年(1896)の「明治三陸地震」では高さ14mを越える津波により1,867人が死亡、
昭和8年(1933)の「昭和三陸地震」では、911人の死亡・行方不明者を出している。
昭和54年(1979)には、総延長2,433m。高さ(海抜)10mの防潮堤を完成させたが、
平成23年(2011)の東日本大震災では、その防潮堤までが破壊され、
200人近い死者・行方不明者を出している。
なお、「田老町」は、2005年に宮古市と合併し廃止されているが、
未だ「田老町」の知名度は高いようなので、本ページのタイトルを「田老町」としている。
本ページでは、東日本大震災から7ヶ月後と3年2ヶ月後の状況が
比較できるよう、写真を交互に配置しています。
また、ページの最下には、震災から8年7ヶ月後の状況を追加しています。
2011/10/25(13:11)
田老野原地区の「長内川」左岸から南の方向を見る(東日本大震災の7ヶ月後)。
写真奥、山の手前に「田老漁港」があり、「田老漁港」の手前には東西(写真では左右)に延びる「防潮堤」があった。
津波は、この「防潮堤」を破壊。辛うじて残ったのが中央に写る「水門」である。
「防潮堤」を破壊した津波は写真手前の方向に流れ、この辺りは特に被害の大きかった場所である。
写真右に写るのは、「長内川」に沿って南北に延びる「防潮堤」で、この「防潮堤」は津波を縦方向に受けたために
被害が少なく済んでいる。
2014/5/26(14:43)
田老野原地区の「長内川」左岸から南の方向を見る(東日本大震災の3年2ヶ月後)。
「田老漁港」付近には、新しい建物(JFたろう真崎わかめ加工場)が建つが、住民の暮らす建物は見当たらない。
2011/10/25(13:13)
田老野原地区の「長内川」左岸から西の方向を見る(東日本大震災の7ヶ月後)。
「長内川」の右岸に写るのは、南北に長く延びる「防潮堤」である。津波はこの「防潮堤」も越えたが、
「防潮堤」より奥(外側)の地区は手前(内側)の地区に比べ被害が少なく済んだという。
写真右に写る白い建物(田老町漁業協同組合)は「防潮堤」の外側にあり、2階の窓ガラスを破損する
被害を受けたが全壊することなく、窓ガラスの一部は破損せずに残ったという。
2014/5/26(14:43)
田老野原地区の「長内川」左岸から西の方向を見る(東日本大震災の3年2ヶ月後)。
「長内川」の右岸には、新たに建物(JFたろう2次加工施設)と駐車場が造られ、震災7ヶ月後にはなかった電柱も立つ。
2014/5/26(14:43)
田老野原地区の「長内川」左岸から北の方向を見る(東日本大震災の3年2ヶ月後)。
すぐ上にある西方向の写真の右に繋がる景色である。
震災7ヶ月後の写真では、白く写っている「田老町漁業協同組合」の建物は、「JFたろう2次加工施設」の右(写真中央付近)に写るが、
この日は、建物全体が黒っぽい工事用シートで覆われ目立たない。
2011/10/25(13:13)
田老野原地区の「長内川」左岸から東の方向を見る(東日本大震災の7ヶ月後)。
特に被害の大きかった場所であり、木造家屋は1軒も残っていないといってよいだろう。
津波は、写真右から左の方向へと襲い、道路の左に写る建物(たろう観光ホテル)の1、2階部分は壊滅状態。
この日、がれき等は整理されていたが、1、2階部分は鉄骨だけの状態であり、津波は、この建物の4階にまで達したという。
2014/5/26(14:44)
田老野原地区の「長内川」左岸から東の方向を見る(東日本大震災の3年2ヶ月後)。
基盤造成(盛土)により、「たろう観光ホテル」は見えなくなっている。
なお、震災発生時に「野原地区」に住んでいた住民は、集団移転団地として造成している「乙部団地(仮称)」に移転。
この「野原地区」は、産業系、公益施設等の用地(非居住地)として、漁業、観光施設等を造る方向で基盤造成工事が
進められているようである。
2014/5/26(14:47)
「野原地区」の中央付近まで移動し、北の方向を見る(東日本大震災の3年2ヶ月後)。
写真右の建物は「たろう観光ホテル」。
2014/5/26(14:49,14:50)
「田老漁港」近くの破壊された防潮堤(東日本大震災の3年2ヶ月後)。
防潮堤は、人や車が行き来する扉の部分を残して破壊されている。
岩手県は、海側の約60mを震災遺構として取り壊さずに残すことを決めたという。
具体的にどこを残すかは分からないが、この辺りも残される対象になる可能性は高いと思われる。
なお、2枚の写真は、同じ扉を角度を変えて撮影している。
2014/5/26(15:04)
震災の3年2ヶ月後の「たろう観光ホテル」。
この建物も、震災遺構として保存が決定しており、
破壊された防潮堤と合わせ防災教育の拠点とする
計画だという。
東日本大震災から8年7ヶ月後
「たろう観光ホテル」は、津波遺構施設として保存するため、平成26年(2014)に宮古市が取得。
平成28年(2016)には、保存整備工事を終え、一般に公開されたが、
非常階段を徒歩で上り下りしての見学であり、高齢者や足の不自由な見学者等は利用しづらかった。
これらを改善し、より安全な見学のため、エレベーターの設置工事が行われていた。
2019/10/18(9:31)
エレベータ設置工事中の「たろう観光ホテル」。
震災遺構「たろう観光ホテル」は、予約者に有料で、
建物内部の見学を行っていたが、マスコミ非公開で、
ここでしか見る事のできない津波映像を視聴する
ためには、6階の客室まで非常階段を歩いて
上らなければならなかった。
写真の翌年、令和2年(2020)1月、エレベーターの
運用が開始され、車椅子利用者や高齢者などの
見学も気軽に利用できるようになったという。
写真をクリックすると別の角度から撮る
「たろう観光ホテル」が表示(600x450)されます。
2019/10/18(9:32)
東日本大震災で移動した「1級登記基準点」。
東日本大震災の地殻変動により、写真に写る
「1級登記基準点」は、東南の方向に
2.18m移動し、0.31m地盤沈下した。
写真をクリックすると「東日本大震災による
地殻変動について」の案内(800x600)が
表示されます。
2019/10/18(10:26)
東側の高台から撮る「田老漁港」。
この年は、新しい防潮堤の工事が行われていた。
写真左奥(漁港の西側)に写る「白い壁」が、
高さ14.7mの新防潮堤。
新防潮堤の工事は、写真の右(北)と
手前(東)でも、行われていた。
写真をクリックすると漁港西側の「新防潮堤」と
その右に写る「田老魚市場」を切抜く
画像(600x450)が表示されます。
2019/10/18(10:27)
東側の高台から撮る「田老漁港」。
写真左端に写るのは新防潮堤の一部。写真右方向にも、一部完成した防潮堤や盛土が写り、
工事が完成すれば、漁港の3方向を新防潮堤が囲む。
なお、東日本大震災の津波は写真左から右の方向へと襲い、壊滅状態となった「田老野原地区」は、
写真の右奥(漁港の北側)にある。

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