盛岡城跡公園とその周辺

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2011/5/6(8:29)
「盛岡城跡公園(岩手公園)」案内図。
案内図には、各観光スポットに番号が振られ、
春秋のお勧め散策ルート等が紹介されている。
なお、公園の名前については、色々と議論された
ようだが、本ページでは、以降「盛岡城跡公園」
と記述する。

2011/5/6(8:38)
「石割桜」。
「盛岡城跡公園」の北側にあり、元南部藩の家老
「北家」の屋敷跡で、現在は「盛岡地方裁判所
(写真左の建物)」の敷地内にある。

2011/5/6(8:39)
「石割桜」の根元部分。
「石割桜」は、庭石の割れ目に桜の種が飛んで
きて芽を出し、木の成長とともに石の割れ目を
押し広げていったといわれる。
石は、「花崗岩」で、大きさは、周囲21m。

2011/5/6(8:39,8:40)
近寄ってみる「石割桜」の根元部分と案内板。
石の割れ目は、現在でも少しずつ広がっているという。
桜は、「エドヒガン」で、樹齢350~400年。幹の周囲4.6m。樹高11m。
枝張りは、東西に16m、南北に17.1m。国の天然記念物に指定されている。
2011/5/6(8:52)
「岩手県公会堂」。
「盛岡地方裁判所」から「岩手県庁」を挟んだ
東側にある。
大正12年に昭和天皇(当時は皇太子)のご成婚を
記念して建設。2007年に放映された、NHK
朝の連続テレビ小説「どんど晴れ」で、「盛岡
さんさ踊り」を観覧するシーンのロケ地として
知られる。
2011/5/6(8:53)
「盛岡城跡公園」北側にある「内丸緑地」の鳥居。
写真の左右に「内丸緑地」がある。左奥に小さく
見えている鳥居の辺りが「綱門跡」。
当時は、この周辺に「侍屋敷」があったようだ。
2011/5/6(8:55,8:56)
桜山神社の「神門(左)」と「拝殿(右)」。
桜山神社は、南部藩の総鎮守で、盛岡藩の初代藩主「南部信直公」の150年忌にあたり、
当時の八代藩主「南部利視公」が寛延2年(1749)、信直公の神霊を盛岡城内の淡路丸に祀ったのが
はじまりで、当初は「淡路丸大明神」と呼ばれていたが、後に周辺の桜の木にちなみ「桜山神社」と
改称されたという。
2011/5/6(8:57,8:58)
「拝殿」右側の階段(左)の上には「烏帽子岩(右)」がある。
この「烏帽子岩」は、盛岡城築城時に三の丸を整地した際、大きさ二丈ばかり突出した大石が
出てきた。そして、その場所が城内の神域にあったため、「宝大石」とされ、以後南部藩盛岡の
「お守り岩」として崇拝されているという。
2011/5/6(9:02)
桜山神社の「神門」まで戻り、案内板で、
これから向かう方向を確認。
写真をクリックすると、「案内板」にある地図が
表示されます。この地図は、1600x1600ピクセル
あります。地図上の文字を読みたいときには、
ウインドのサイズを大きくし、スクロールバーを
ご利用下さい。
また、この地図は北が右下方向に書かれている
ため、南北がほぼ逆になります。
2011/5/6(9:04)
桜山神社の右側に沿って進み、「三ノ丸」に
向かう。
2011/5/6(9:09)
「三ノ丸」から見る「烏帽子岩」。
「三ノ丸」は、「烏帽子岩」の裏側に位置する。
2011/5/6(9:10)
「三ノ丸」から「二ノ丸」へと向かう。
2011/5/6(9:07)
「三ノ丸」。
写真左方向に「烏帽子岩」。「二ノ丸」「本丸」は、右方向にある。
「盛岡城」は、慶長2年(1597)盛岡藩初代藩主「南部信直」が、嫡男の2代藩主「利直」を総奉行として築城に着手。
寛永10年(1633)、3代藩主「重直」が入城して以来、盛岡南部氏の居城となる。
北上川、雫石川、中津川を自然の壕に利用した平城であったが、「廃藩置県」の後、明治5年(1872)には陸軍省の所管となり、
明治7年(1874)、「内曲輪(御城内)」の建物の大半が取り壊される。
明治39年(1906)には「岩手公園」として整備され、盛岡産の花崗岩を積み上げた石垣が残り、東北三大城跡の一つに数えられるが、
建物は再建されず、内堀と石垣だけの城跡になっている。
2011/5/6(9:12)
「石川啄木歌碑」。
少年時代の「石川啄木」が、学校の窓から逃げ
出し、文学書、哲学書を読み、昼寝をしたのが、
ここ「二ノ丸」だったという。
2011/5/6(9:13)
「二ノ丸」。
「二ノ丸」には、藩政を取り扱う諸役所が
置かれていたという。
現在は、「石川啄木歌碑」の他、「新渡戸稲造
文学碑」等がある。
2011/5/6(9:15)
「廊下橋跡」。
本丸と二ノ丸の間にあり、当時は廊下橋(屋根の
かかった橋)が架けられていたという。
橋の下は「空堀」となっている。
2011/5/6(9:17)
「本丸」。
「本丸」の南東隅に天守台が築かれたが、
幕府への遠慮から天守は築かれず、天守台に
御三階櫓があったという。
2011/5/6(9:19)
「南部中尉像台座」。
「本丸」にある。
南部家42代「南部利祥」は、日露戦争において
戦死。その功を顕彰するために建てられた「利祥
中尉騎乗姿像」であったが、銅像本体を昭和19
年(1944)太平洋戦争の軍需資材として供出され、
台座のみの姿となり、現在に至る。
2011/5/6(9:24)
「本丸」西側「腰曲輪」の桜。
2011/5/6(9:21)
「本丸」から見下ろす桜。
2011/5/6(9:25)
「宮野小提灯句碑」。
句集「矮鶏」中「蓑虫」編の一句が
「月待つや 独り 古城の松のもと」と刻まれる。
昭和26年(1951)門下生達により建立。
2011/5/6(9:31)
「多目的広場」と「芝生広場」の間にある橋の
上から見る「鶴ヶ池」。
(写真左側が「多目的広場」)
2011/5/6(9:37)
「盛岡銀行旧本店本館(現中ノ橋支店)」。
「盛岡城跡公園」を北側に出て、「中ノ橋」を
渡ったところにある。
明治44年竣工。「東京駅」等も手掛けた「辰野
金吾博士」と盛岡出身の「葛西萬司工学士」の
手によるもので、白く見える横の線は「白色
花崗岩」を使用している。
国の有形文化財に指定され、「赤レンガ」の愛称
でも親しまれている。

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