橋野高炉跡

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2011/10/25(8:37)
「橋野高炉跡」入口付近。
「橋野高炉跡」は、現存する日本最古の洋式高炉
跡であり、国の文化財史跡にも指定されている。
場所は、鉄の町「釜石」の北にある「鵜住居」
から、岩手県道35号釜石遠野線を西に約25km
走ったところにある。

2011/10/25(8:38)
「二又沢」を渡る。
高炉にとって沢の水は、高炉に風を送る
「フイゴ」を稼働させる大切な動力源である。

2011/10/25(8:38)
「大門跡」。
「橋野高炉」の入口であり、右の石柱には
「史跡 橋野高炉跡」とある。

2011/10/25(8:39,8:39)
「橋野高炉跡」入口正面にある案内板。
案内板の左には「橋野高炉の成功により日本の近代化が始まった!」とあり、右には「案内図」と
「橋野高炉の沿革」等が書かれている。
「橋野高炉」は、水戸藩那珂湊の反射炉へ大砲用の銑鉄を供給するために建設されるが、
安政の大獄により、水戸藩主「徳川斉昭」が失脚したことから反射炉が閉鎖。
「橋野高炉」の閉鎖も検討されたが、「海防には銑鉄が必要」とのことから、一番高炉、二番高炉を
増設。さらには仮高炉を三番高炉に改修。後には銭座を開設し、銭貨の鋳造に使われたという。
右の写真をクリックすると、「橋野高炉跡」の案内図(写真とは別の案内板)が表示されます。
この案内図は、1,280x980ピクセルあります。案内図の文字を読みたいときには、
表示された画像をクリックし、スクロールバーをご利用下さい。
2011/10/25(8:40)
「案内図」の右に書かれた施設を先に見ようと、
「二番高炉」に向かう。
2011/10/25(8:42)
「二番高炉」横の「水路跡」。
近くには「水車場跡」もある。
2011/10/25(8:45)
「二番高炉」。
万延元年(1860)かその翌年に完成。
大きさは、約4.8m四方。高さも約4.8m。
写真をクリックすると拡大写真(600x450)が
表示されます。
2011/10/25(8:47)
「一番高炉」。
「二番高炉」と同じ、万延元年(1860)か
その翌年に完成。
大きさは、「二番高炉」よりも大きく約5.8m
四方であるが、高さは、約2.4mと低い。
写真をクリックすると拡大写真(600x450)が
表示されます。
2011/10/25(8:47)
別の角度から見る「一番高炉」。
2011/10/25(8:48)
「一番高炉」横の「水車場跡」。
高炉に風を送る「フイゴ」は、水車により
稼働させていた。
ここでUターン。
水路に沿って「御日払所跡」に向かう。
2011/10/25(8:51)
「種積場跡」。
「種」とは「鉄鉱石」のことで、「鉄鉱石」を
保管していた場所である。
なお「種積場」は複数ヶ所にあるが、これは
「一番高炉」の近くにある「種積場跡」である。
2011/10/25(8:55)
「種砕水車場」。
採掘場から運ばれた「鉄鉱石」は、高炉に挿入
する前に、適当な大きさに砕くため、水車が
設置されたというが、実際にはあまり使用せず、
ほとんどが人力で行われたという。
2011/10/25(8:55)
「種臼場跡」。
「鉄鉱石」を適当な大きさに砕いた場所。
なお、この日は気づかなかったが、案内図には、
写真右の方向に、砕く前に「鉄鉱石」を加熱する
「種焼窯」もある。
2011/10/25(8:56)
「日本最古溶鉱炉記念碑」。
「大門跡」を直進すると右側にある。
写真をクリックすると石碑の写真(450x600)が
表示されます。
2011/10/25(8:58)
「御日払所跡」。
「御日払所」は、「橋野高炉」の管理事務所で、
最盛期には、鉱石採掘・駄送・製品搬送に500人、
製炭300人、高炉場で200人の合計1,000人余りが
働いていたという従業員への賃金の支払いの他、
鉄鉱石の管理、出来上がった銑鉄の製品管理等を
行っていた。
この先は、「案内図」の左に書かれた施設を
見ます。
2011/10/25(8:58)
「板倉跡」。
詳細不明。
後ろに見えるのは、見学者のための「休憩所」。
2011/10/25(9:00)
「三番高炉」。
安政5年(1858)操業を開始した「仮高炉」を、
元治元年(1864)以降に改修し「三番高炉」と
なる。
「三番高炉」は、「一、二番高炉」が廃止された
後も使用され、「橋野高炉」が閉鎖される
明治27年(1894)まで稼働したという。
大きさは、約5.4m四方。高さ約5m。
写真をクリックすると拡大写真(600x450)が
表示されます。
2011/10/25(9:00)
別の角度から見る「三番高炉」。
2011/10/25(9:01)
「三番高炉」の説明板。
「高炉1座が、つぎの操業にとりかかるまで
30日以上の準備を必要とし、1製錬所において
高炉3座を交互に操業することが効率的で
あった」とある。
注:当時の高炉は、30~50日稼働すると
修繕が必要であったという。
写真をクリックすると説明板が表示されます。
この説明板は、1,280x980ピクセルあります。
説明板の文字を読みたいときには、表示された
画像をクリックし、スクロールバーをご利用
下さい。
2011/10/25(9:03)
「鐵のできるまで」の説明板。
「鉄鉱石」の採掘から、出来上がった銑鉄を
計量し、出荷するまでの作業の流れが分かり
やすく書かれている。
写真をクリックすると説明板が表示されます。
この説明板は、1,280x980ピクセルあります。
説明板の文字を読みたいときには、表示された
画像をクリックし、スクロールバーをご利用
下さい。
2011/10/25(9:03)
「橋野高炉-高炉のしくみ-」の説明板。
「高炉」や「高炉覆屋」等の図が書かれ、年間
実働約250日で、938tを生産したとある。
写真をクリックすると、説明版左上の文章が
表示(600x450)されます。
2011/10/25(9:07)
「山神社跡」。
現在は基礎だけが残り、御神体、石製手洗鉢、
扁額が、橋野町中村の「熊野神社」に移設された
という。
2011/10/25(9:09)
「山神碑」と「牛馬供養碑」。
「橋野高炉」では、牛150頭、馬150頭が
働いていたという。
注:入口正面の案内板には、「馬150頭」と
書かれているが、釜石市のHPにあるパンフ
レットでは「馬50頭」となっている。
【追記】
・平成24年2月の時点では、釜石市のホームページで、22ページにおよぶ「橋野高炉跡」の詳細なパンフレットが公開されています。
 本ページを見て「橋野高炉」に興味を持たれた方は、是非ご覧になって下さい。
・釜石市内にある「鉄の歴史館」では、近代製鉄の父「大島高任」の資料を中心に鉄の歴史を紹介する他、「橋野高炉跡」全体のジオラマや、
 橋野高炉を原寸大で再現した模型などが展示されています。こちらは有料ですが、興味のある方はご利用下さい。

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