会津飯森山
(白虎隊十九士の墓&さざえ堂)

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2014/9/30(11:04,11:06)
「飯盛山」参拝者用の駐車場と参道。
「会津飯盛山」は、JR磐越西線・只見線「会津若松駅」の東南東約2.4kmにある標高372mの山で、
白虎士中二番隊が戸ノ口原の血戦において敗走。鶴ヶ城周辺の武家屋敷等が火煙に包まれているのを見て
落城と錯覚、十九士が自刃した地である。
左の写真、中央に写る山が「飯盛山」。
右の写真、参道入口から183段の石段までの間には、土産物屋が並ぶ。
参道入口の案内板には「飯盛山は、明治戊辰の戦に、わずか16、7歳の少年達が、主君のために戦い力つき、
ようやくこの地にたどりつき、そして自決した『白虎隊士』の自刃の場所と墓地である」とある。
本ページでは、「飯盛山」中腹にある白虎隊十九士の墓と隣接する地に立ち、世界にも例を見ない独自な建物と
いわれる「さざえ堂」を紹介する。
なお、「飯盛山」の標高については、314mと記載しているページが多いが、本ページでは地図ソフトに書かれる
372mとした。未確認ではあるが、白虎隊十九士の墓のある場所の標高が、314mなのであろうか。
2014/9/30(11:07)
「飯盛山案内図」。
この案内板は、参道石段の登口にあり、183段の
石段は下りで利用。裏手の坂から回る比較的楽に
歩けるコースが紹介されている。
この日は、石段を歩いて登っているが、エスカレータに
似た動く坂道「スロープコンベア(有料)」を利用すれば、
残り45段の石段を登るだけで、「白虎隊十九士の墓」
前の広場まで行くこともできる。
また、案内板の前に立つ「隊士と犬の銅像」は、
敗走の途中で仲間とはぐれ自刃も考えた「酒井峰治」が
飯盛山麓で、愛犬の「クマ」と出会ったときの様子を
銅像にしたという。
写真をクリックすると「飯盛山案内図」が
拡大表示されます。
この案内図は、1.200x800ピクセルあります。
案内図の文字を読みたいときには、表示された画像を
クリックし、スクロールバーをご利用下さい。
2014/9/30(11:08)
史料館「白虎隊記念館」。
参道石段の登口にあり、館内には、「白虎隊」をはじめ、
会津藩関係の史料等1万2千点が展示されるという。
2014/9/30(11:18)
「会津藩殉難烈婦の碑」。
戊辰戦争では、婦女子も戦いに参加し、数多くの
犠牲者を出している。
これら、戦死や自刃した婦女子二百余名の霊を
弔うために建てられたという。
2014/9/30(11:19)
「白虎隊十九士の墓」の入口。
石段を上がった正面に「白虎隊十九士の墓」がある。
2014/9/30(11:17)
「白虎隊十九士の墓」前の広場。
広場では、小学生が集合させられ、説明を受けている所であった。
小学生達の右に立つ塔は、古代ローマ時代のポンペイから発掘された宮殿の石柱による「ローマ記念碑」で、
昭和3年(1928)に「ベニート・ムッソリーニ」から寄贈されたという。
写真右を奥に進むと「白虎隊自刃の地」があるのだが、この日は気づかずに通り過ぎたため、記録に残っていない。
2014/9/30(11:21)
「白虎隊十九士の墓」。
慶応4年(1868)8月23日、白虎隊二十士が自刃を決行。内只一人「飯沼貞吉」は、喉を突くも一命を取り留め、
白虎隊自刃の真相を後世に伝えることとなる。
戦いが終わっても西軍は、戦死者の埋葬を禁止した。
このため、幼き十九隊士の屍も風雨にさらされたが、約三ヶ月後村人により、密かに仮埋葬される。
明治14年(1881)になり、一基の石碑が立てられるが、文字を刻むことは許されなかったという。
現在のように、19隊士各々の墓碑が建立されたのは、明治23年(1890)になってからのことである。
写真右端に写る、少し小さめの墓碑は、会津各地の戦いで亡くなった「戦死白虎隊三十一士の墓」である。
写真をクリックすると「会津藩白虎隊精神の基礎 忠孝両全碑」の案内板が表示されます。
文字が小さく、長文ですが興味のある方はご覧ください。
また、この案内板は、1,200x800ピクセルあります。
案内板の文字を読みたいときには、表示された画像をクリックし、スクロールバーをご利用下さい。
2014/9/30(11:19)
「吉田伊惣次氏篤志の碑」。
「吉田伊惣次」は、屍が風雨にさらされる惨状を見て、
村人に協力を求め、夜密かに遺骸を仮埋葬。
このことで、「吉田伊惣次」は西軍に捕られられ、
その後、放免されるものの、一時は入牢。
遺骸も元の場所に打ち捨てられたという。
2014/9/30(11:23)
「少年武士慰霊碑」。
白虎隊以外で戦死した少年武士たちの慰霊碑。
2014/9/30(11:28)
石段上から見る「会津若松」の市街地。
石段を下りず、右の方向に進むと「さざえ堂」がある。
この写真下方には、急な石段を登る人の姿と、
石段に平行して造られた「スロープコンベア」が写る。
写真をクリックすると「スロープコンベア」と石段部分を
切り抜いた画像(600x450)が表示されます。
2014/9/30(11:30)
石段上から「さざえ堂」への道。
距離はわずか50m程であろう。
右の石垣上には、「水塚、花塚、茶釜塚」が立つ。
2014/9/30(11:30)
「水塚、花塚、茶釜塚」。
写真左から「茶釜塚」「水塚」「花塚」。
「花塚」には、「松平容保公」の歌が刻まれ、
北海道から九州までの各地で集められた
243種類の花が埋葬されたという。
2014/9/30(11:31)
会津飯盛山「さざえ堂」。
写真をクリックすると拡大写真(450x600)が
表示されます。
2014/9/30(11:32,11:32)
会津飯盛山「さざえ堂」。
明治初期の廃仏毀釈で廃寺となる前の「正宗寺・円通三匝堂(えんつうさんそうどう)」で、入堂時に頂いた
しおりには、「寛政8年(1796)郁堂和尚が考案建立したもので六角3層高さ約16米、昇降別々のらせん形
通路により階段がなく、一方通行で上下するという日本唯一、世界にも例のない名建築とされている。
昔は三十三観音を安置したが明治以降は皇朝二十四考(会津藩道徳教本)の絵額を掲げている」とある。
左の写真をクリックすると拡大写真(600x450)が表示されます。
右の写真をクリックすると「さざえ堂」の案内板(800x600)が表示されます。
2014/9/30(11:32)
「さざえ堂」の中に入る。
入口に掲げられる扁額は、寛政9年「郁堂和尚」の
揮毫により「福聚海」と書かれ、これは「福徳の集まる
ことが海のように広大である」という意で、「観世音菩薩
の恵みが広大である」ことを称える語だという。
2014/9/30(11:33)
「郁堂和尚像」。
入口正面に安置されている。
2014/9/30(11:33)
堂内の斜路。
確かに階段ではないが、かなりの傾斜である。
入口を入ると左に進み、右回りで斜路を上がる。
2014/9/30(11:34)
途中で振り返ってみる斜路。
斜路には、会津藩子弟の道徳教本として、
第八代容敬(かたたか)公の命により編纂されたという
「皇朝二十四孝(こうちょうにじゅうしこう)」の絵額が
掲げられている。
2014/9/30(11:35)
「さざえ堂」最頂部の天井。
写真をクリックすると拡大写真(600x450)が
表示されます。
2014/9/30(11:35)
「さざえ堂」最頂部の太鼓橋。
2014/9/30(11:35)
「さざえ堂」最頂部に掲げられる額と絵額。
額には、「顕宗(けんぞう)天皇」と「仁明(にんみょう)
天皇」について書かれている。
2014/9/30(11:36)
「さざえ堂」最頂部の太鼓橋から進行方向下を見る。
太鼓橋までの登りは右回りであったが、太鼓橋を渡ると、
左に進み、左回りに下りる。
この構造により、同じ斜路を歩くことなく、一方通行で、
対向する人にも出会うことなく「さざえ堂」を登って
下りることができる。
2014/9/30(11:37)
斜路を左回りに下りる。
2014/9/30(11:37)
「残夢和尚像」。
「残夢和尚」は、「飯盛山正宗寺」の開祖とあり、
斜路を下りきった出口に安置されている。
なお、この出口は入口の反対側、つまり裏側にある。
2014/9/30(11:40)
正面から見る「さざえ堂」。
写真をクリックすると拡大写真(450x600)が
表示されます。
2014/9/30(11:43)
「厳島神社」の境内。
「さざえ堂」正面の石段を降りると、「厳島神社」の
境内に出た。
2014/9/30(11:43)
「厳島神社」。
かつては、「宗像神社」と称し、宗像三女神の一つ
「市杵島(いちぎしま)姫命」を祀る。
明治の神仏分離令により「厳島神社」に改名された。
2014/9/30(11:45)
「戸ノ口堰洞穴」。
「戸ノ口堰」は、猪苗代湖北西岸の「戸ノ口」から、
会津盆地へ水を引く全長31kmにおよぶ用水の堰で、
堰の奥にある「戸ノ口堰洞穴」は、戸ノ口原の血戦で、
敗走する白虎士中二番隊20名が、「飯盛山」に
たどりつく際に潜った洞穴である。
写真をクリックすると「白虎隊引上げ洞穴」の
写真(600x450)が表示されます。
2014/9/30(11:47)
「戸ノ口堰水神社」。
2014/9/30(11:48)
「弁財天像」。
「厳島神社」の祭神「市杵島姫命」は、「弁才天」と
習合していたことから、「飯盛山」は、別名「辯天山」とも
呼ばれる。
2014/9/30(11:48)
奥に「厳島神社」。
手前右に「子育地蔵尊」。
2014/9/30(11:49)
「厳島神社」へと続く参道。
鳥居には「厳島神社」とある。
参道左に立つ標識には「奥州會津飯盛山本参道」と
書かれている。
11時7分の写真で紹介している「飯盛山案内図」では、
この道から「厳島神社」へと進み、「さざえ堂」から
「白虎隊十九士の墓」と歩き183段の石段を下りる
コースが紹介されている。
2014/9/30(11:52)
「白虎隊伝承史学館」。
白虎隊を中心に、新選組など会津戊辰戦争関係の
史料5,000点を展示するという。

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