雪中行軍遭難の地

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2014/5/27(17:41,17:41)
「銅像茶屋」と「雪中行軍遭難記念碑」の方向を示す案内板。
「雪中行軍遭難の地」は、国道103号を青森市から十和田湖方面へと向かうと「八甲田ロープウェー」の
約3km手前で、県道40号「青森田代十和田線」へと分かれ東に約3.5kmの所にある。
「八甲田山雪中行軍」は、「新田次郎」の小説「八甲田山死の彷徨」や「高倉健」主演の映画「八甲田山」等で
多くの人に知られるが、明治35年(1902)1月、ロシアが八戸に上陸し、これを三本木にて迎え打つことを想定。
日本陸軍第8師団歩兵第5連隊210名の大編成が、3日分の食料や燃料(薪)、鍋釜等を載せた「橇」14台と
共に青森連隊駐屯地を出発。田代温泉に一泊して戻る片道約20kmの雪中行軍訓練であった。
出発時、穏やかであった天候は急変。強風と深雪等のため重量80kgにも及ぶ「橇」を放棄する等、
行軍は困難を極め、2日目には道を失い彷徨。部隊はばらばらになり、参加者の内救出されたのは僅か17名。
その内6名は救出後に死亡。199名という犠牲者の多さから、世界の山岳遭難史上例のない事故である。
写真左、「銅像茶屋」は、「味噌おでん」や「行者ニンニク」等の山菜が入った料理で評判のようであるが、
開店時間帯を過ぎ、シャッターは閉まっている。
写真右、「銅像茶屋」横の案内板には「雪中行軍遭難記念碑へは右側の参道を250m程上る」と書かれる。
2014/5/27(17:42)
「歩兵第五聯隊第二大隊遭難碑」の案内板。
「遭難記念碑」の入口に建つ。
写真をクリックすると案内板「歩兵第五聯隊第二大隊
遭難碑」の文章が表示(800x600)されます。
2014/5/27(17:42)
「銅像茶屋」裏の広場。
奥に建つ標識には「雪中行軍遭難の地」とあり、
椅子やテーブルが整備されている。
2014/5/27(17:43)
広場に沿った緩やかな坂を「遭難記念碑」へと向かう。
2014/5/27(17:47)
「遭難記念碑」が見えてきた。
「遭難記念碑」が立つ広場の案内板には、「記念碑は、
八甲田山雪中行軍の事実を後世に伝えるもので、
青森市の有形文化財に指定される」とある。
写真をクリックすると案内板「歩兵第五聯隊第二大隊
遭難記念碑」の文章が表示(800x600)されます。
2014/5/27(17:49)
「歩兵第五聯隊第二大隊遭難記念碑
(八甲田山雪中行軍遭難後藤伍長銅像)」。
銅像は、出発から5日目、仮死状態で雪中に佇立する
姿で発見され、雪中行軍隊の遭難を明らかにした
「後藤房之助伍長」をモデルに、遭難から4年後の
明治39年(1906)近代彫刻の先駆者と呼ばれる
「大熊氏広」の手により制作された。
写真をクリックすると2.75倍ズームで撮る
「後藤房之助像」が表示(450x600)されます。
2014/5/27(17:51)
「八甲田連峰」を背にする
「歩兵第五聯隊第二大隊遭難記念碑」。
「八甲田連峰」の右端に一段と高く見えるのは、
「前嶽(八甲田前岳、標高:1,252m)」。
写真をクリックすると碑文「歩兵第五聯隊第二大隊
遭難記念碑」が表示(500x600)されます。
2014/5/27(17:52)
「八甲田山雪中行軍遭難後藤伍長銅像」。
写真は、4.5倍ズームにて撮影。
「後藤伍長」は、11名の生存者の中の一人で、
凍傷により両手両足を切断するが、銅像の除幕式にも
出席。後には、出身地宮城県栗原郡姫松村(現栗原市)
で村会議員を2期に渡り務めたという。
写真をクリックすると拡大写真(450x600)が
表示されます。

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