博物館網走監獄

この下にある「プルダウンメニュー」が表示されない場合は、ページ最下行にあるハイパーリンクをご利用下さい。





 

2010/7/1(7:57)
「鏡橋(再現構築)」。
「刑務所」と「娑婆(市街地)」を分ける橋で
ある。
「流れる清流を鏡として、我が身を見つめ、
自ら襟をただし目的の岸に渡るべし」との
思いが、この橋の名前の由来という。
現在までに、橋は4回架け替えられ、ここに再現
された橋は、2代目(擬宝珠付きの欄干)と
3代目(トラス)の特徴を併せもったものとした
という。

2010/7/1(7:58)
「博物館網走監獄入口」。
右の門は、「網走刑務所二見ヶ丘農場」の正門を
再現したもの。

2010/7/1(7:58)
「博物館網走監獄」の館内ご案内。
館内では、東京ドーム約3.5個分の敷地面積の
中に、明治時代から実際に網走刑務所で使用され
てきた22の建物を移築/再現し、保存展示され
ている。

2010/7/1(7:59)
「網走刑務所正門(再現構築)」。
通称「赤煉瓦門」。
使用されている煉瓦は、窯の中に塩を入れ、
1,160度以上の高温で焼き上げるため独特の
黒褐色の色をしており、形も普通の煉瓦より
20~30%小さいのが特徴という。
現在はこのような焼き方はできないため、
ここに復元された門は煉瓦建築の歴史を知る
うえで大変重要なものだという。
2010/7/1(8:00)
「五寸釘の寅吉(明治の脱獄王)」。
明治の脱獄王「西川寅吉」は、6回の脱獄歴を
持ち、逃亡途中に五寸釘のついた板を踏み抜き、
そのまま12km走ったことから、「五寸釘の
寅吉」という異名をとるようになる。
明治34年「網走監獄」に送られてきたが、
過去を反省。模範囚として過ごし、大正13年
老齢による刑の執行停止により釈放される。
2010/7/1(8:02)
「庁舎(移築復元)」。
刑務所管理部門の主軸となる建物で、中は典獄
(現在の刑務所長)室をはじめ、総務/戒護/
用度/教育などの各課に区切られ、この建物は、
昭和62年まで使用されていた。
2010/7/1(8:07)
「網走刑務所裏門(移築復元)」。
赤煉瓦門塀製作開始の大正8年に一番最初に着工
した門であり、その後5年間かけ、大正13年に
延長1,080mの赤煉瓦塀を完成させたと
いう。
以来、平成5年までの70年間にわたり網走刑務
所裏門として、受刑者が塀の外の作業場(農業、
養豚場)に出かける時に通った門である。
2010/7/1(8:07)
「網走刑務所水門(再現構築)」。
網走刑務所では、前を流れる「網走川」を利用
して、生活物資を運び入れたり、農場へ肥料を
運ぶ等、貴重な水路として利用していたという。
2010/7/1(8:09)
「釧路地方裁判所網走支部(移築復元)」。
建物の外観は、明治33年から昭和27年まで
使われた旧網走区裁判所の外観を再現。内部の
「単独法廷」「合議法廷」及び「勾留質問室」等
は、昭和27年から平成3年まで使用されていた
ものを移築復元。照明器具、カーテン等も実際に
使用されていたものを展示しているとのこと。
2010/7/1(8:15)
「休泊所(再現構築)」。
受刑者が塀の外に出て、日帰りできない作業を
する場合は「休泊所」と呼ばれた仮小屋で寝泊ま
りした。
別名「動く監獄」と呼ばれ、札幌と網走を結ぶ
中央道路の開削では、明治24年4月から11月
までの8ヶ月間に、延べ1,000人以上の受刑
者を投入。工事の進行に伴い、次々と休泊所を
建てては移動していったという。(あまりに過酷
な労働により、この開削では200名前後の収容
者が死亡したといわれる)
2010/7/1(8:15)
「休泊所(再現構築)」の中。
部屋の中央は土間で、突きあたりがトイレ。それ
には、囲いはなく四六時中監視されていたと
いう。また、寝床は板張りで、枕の代用として
丸太棒が床に釘づけになっており、夜具は薄い
柏布団1枚であった。
2010/7/1(8:17)
「看守長屋(再現構築)」。
この建物は、明治45年に刑務所敷地内に建てら
れ、幾度もの補修を経て、昭和58年まで刑務官
の住宅として使用されてきた。
この再現建物は、来館者の休憩所、各種イベント
会場として使用されている。
2010/7/1(8:19)
「監獄歴史館」。
2010年2月にリニューアルオープンしたばか
りの施設(旧行刑資料館)。
中には「体感シアター」、「本物の網走刑務所
舎房を再現」、「囚人体験アイテム」等があり、
網走監獄の歴史を体験できる。
2010/7/1(8:21)
「現在の網走刑務所 共同室(再現)」。
広さ約16畳半の部屋に原則として6名が収容
される。被収容者が使用する机、布団が置かれ、
洗面道具などの私物は、個々人毎に収容棚が与え
られる。
2010年現在、網走刑務所には、83の共同室
がある。
2010/7/1(8:22)
「現在の網走刑務所 単独室(再現)」。
広さ約4畳半の単独室には、原則1名が収容され
る。机、布団が置かれ、身の回りの品の他、室内
装飾品として写真や花瓶を置くことが許される。
現在の刑務所では、単独室の数を増やし、被収容
者の居住空間の向上に努めていることから、
2010年現在、網走刑務所には、938の単独
室がある。
2010/7/1(8:22)
「現在の網走刑務所の食事」。
左から「朝食」、「昼食(焼き魚)」、
「夕食(酢豚)」。
博物館網走監獄では、「旧二見ケ岡農場食堂棟」
と「番外地食堂」で、監獄食を体験することが
でき、食べた人からは「意外に美味しい」と評判
とのこと。
2010/7/1(8:31)
「登り窯(再現構築)」。
日本の監獄では、明治時代、近代的な獄舎建築の
ため、受刑者による煉瓦製造を積極的に行った。
網走監獄においても、正門、懲罰房、サイロ、
倉庫など、網走監獄三眺山の「三連登り窯」で、
焼いた煉瓦が使用されている。
2010/7/1(8:32)
「高見張り(再現構築)」。
受刑者の逃走、暴行事件などの発生に備えた
「やぐら監視所」。網走刑務所は、昭和43年
までは、長期受刑者を収容する施設(現在は、
刑期8年未満の受刑者を収容)であったため、
所内と裏山の4ヶ所のやぐらの廊下(12.95
㎡)と高さ8mの高見張りに、職員が2時間交代
で監視を行っていたという。
2010/7/1(8:32)
「二見ヶ岡農場作業」。
網走刑務所は、農園作業の先導的施設として明治
29年「屈斜路外役所」を設置。独自の農園訓練
規定を設け寒冷地農業に取り組んだという。
奥の建物は、移築復元された「旧網走刑務所二見
ヶ岡農場」。春から秋のシーズン中は、この建物
が「監獄食」の会場となる。
2010/7/1(8:36)
「五翼放射状舎房(移築復元)」。
明治45年から昭和59年まで実際に網走刑務所
で使用されていた獄舎を移築復元。
「五翼放射状舎房」は、中央見張りを中心に、
舎房が5本の指を放射状に広げたような形をして
おり、写真は5方向に広がる舎房の中の1つを
写したもので、左右には雑居房、独居房が並ぶ。
補足:本ページ最上段にある「館内ご案内」の
図にある「5本の指を広げたような形をして
いる」のが、この建物である。
2010/7/1(8:38)
「五翼放射状舎房」内の「居房扉」。
扉の上には、部屋の中を監視するための
「視察孔」。下には、食事を出し入れするための
「食器口」がある。
「五翼放射状舎房」の中は、収容人員3~5人の
雑居房と独居房合わせて226房があったと
いう。
2010/7/1(8:39)
「五翼放射状舎房」の「中央見張」。
中央見張りを中心に、舎房が5方向に広がる
ため、この一ヶ所で5棟の舎房全てを監視する
ことができた。
2010/7/1(8:42)
「浴場(再現構築)」。
1度に15人ずつが、脱衣に3分、第1槽入浴
3分、洗身3分、上がり湯の第2槽入浴3分、
着衣に3分。合計15分間で効率よく入浴した
が、それでも1日に入浴できる人数は200人
程度であった。
このため、6月から9月までは月5回、他の月は
1回しか入浴できなかったという。(現在は1日
おきに入浴できる)
2010/7/1(8:45)
「煉瓦造り独居房(移築復元)」。
この独居房には、窓がなく、扉は二重、しかも
煉瓦の壁の厚さは、40cm以上。
明治時代の監獄の規則には、規則違反者を窓の
無い真っ暗な部屋に閉じこめ、食事を減らし、
反省させるという厳しい罰則があり、この規則に
合わせて建てられたものと考えられている。
2010/7/1(8:45)
「独立型独居房(再現構築)」。
この独居房の内部は土間と居室に分かれ居室は
畳2枚分の板張りで、明かりは入口と欄間から
入るだけであった。
1囚1房を理想とする監獄法に基づいて、明治
45年当時には34棟あったが、社会復帰が行刑
の目的となるにつれて雑居が重視され、次第に
使われなくなったという。
2010/7/1(8:46)
炭焼小屋(再現構築)。
冬になると受刑者は、材木を集め馬橇で網走川岸
まで運び、雪がとけると、発動汽船が曳航する
だるま船に木材を満載し、刑務所まで運ぶ。
明治45年にボイラーが設置されるまでは、この
ようにして1年間に必要な約152トンの薪や炭
を生産したという。
2010/7/1(8:48)
「教誨堂(移設復元)」の中。
教誨とは教えを諭すということ。ここでは、受刑
者に対して精神的、倫理的、宗教的な教化指導を
行うとともに、冬は体育館のような使い方もされ
ていたという。
また、戦後は、正面の仏壇を撤去。名前も講堂と
改め、免業日(作業のない日)には映画を見せた
り、慰問公演が行われたという。
2010/7/1(8:50)
「釧路集治監網走囚徒外役所正門」。
明治23年~明治29年の網走刑務所の塀。
明治5年監獄則で、塀の造りは「石造り」か
「煉瓦造り」にすることが決められたが、実際は
資材調達の関係等、地域の事情で作られ、網走の
場合も創設当時の塀は木造であった。
2010/7/1(8:53)
「教誨堂(移設復元)」の建物。
明治45年建設。総瓦葺き入母屋造り重厚な屋根
を持ち、内装は、漆喰を用いて天井に装飾を
施し、シャンデリアを釣り下げた「和洋折衷」の
建築様式で、受刑者は、「神の宿るところ
だから」と、刑務所内どの建物よりも精魂込めて
作ったという。
2010/7/1(8:54)
「哨舎(移築復元)」。
全国各地の刑務所では、出入り口や作業場などに
「哨舎」という見張所を設けて、外部からの進入
や受刑者達の行動を監視していた。
この哨舎は所内に8か所に設置され、昭和60年
頃まで実際に使用されていたもの。

    網走周辺に戻る    旅の記録(北海道)に戻る

 旅の記録に戻る    Donichi’s HomePageに戻る