かもめ島

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2013/6/20(12:41,12:43)
「かもめ島歩きMAP」と駐車場から島への道。
「かもめ島」は、「檜山郡江差町」にあり、JR江差駅から車で5分程の距離にある。
一番高い所の標高が約20m。周囲2.6km程の小島であるが、現在では陸続きになっており、
島の入口に車を止め、島には徒歩で渡る。
島は、中央部分が細く、左右に羽を広げたような形をしていることから「かもめ島」と呼ばれるという。
左の写真をクリックすると地図が拡大表示されます。
この案内板は、1280x700ピクセルあります。
案内板の文字を読みたいときには、表示された画像をクリックし、スクロールバーをご利用下さい。
2013/6/20(12:47)
「瓶子岩」と「かもめの散歩道」。
高さ10m程の「瓶子岩(へいしいわ)」は、
古来より漁民の守り神として地元漁師から崇拝され、
毎年7月に行われる「江差かもめ島まつり」では、
長さ30mの注連縄が架け替えられる。
海上に造られた「かもめの散歩道」は、崖からの
落石の危険を避け安心して島を一周することができる。
写真をクリックすると拡大写真(600x450)が
表示されます。
2013/6/20(12:48)
石段を島の上へと登る。
写真中央の建物には、「江差追分鴎声会道場」とあり、
江差追分全国大会で優勝経験のある「青坂満」の
自宅だという。
2013/6/20(12:49)
石段の途中にある「北前船飲用井戸」の標柱。
北前船の船乗りたちに飲み水を提供するため、
明治9年(1876)、江差商人により掘られたとあるが、
この掘削には、莫大な経費と長い年月を要したという。
2013/6/20(12:49)
「北前船飲用井戸」。
井戸脇には、掘った際の記録の石碑があるという。
写真をクリックすると3倍ズームで撮る「北前船
飲用井戸」が表示(600x450)されます。
2013/6/20(12:52)
「島の上の風景」。
石段を登り切ると、そこは広々とした草原になっており、写真右方には「鴎島灯台」も見えている。
写真は、西を向いて撮影しており、写真の左が南、右が北の方向である。
2013/6/20(12:52)
石段最上部。
2013/6/20(12:55)
島を時計回りに一周しようと、先ずは、南の方向へ
足を運ぶ。
2013/6/20(12:55)
「開陽丸青少年センター」。
「開陽丸青少年センター」は、「かもめ島」の入口にあり、
遊歩道を南に歩くと左側に見える。
「開陽丸」は、幕末期、徳川幕府が所有した軍艦で
あったが、オランダで建造されて僅か1年7ヶ月後の
明治元年(1868)、暴風の為江差沖で座礁、沈没。
平成2年(1990)に実物大で再現され、海底より引き揚げ
られた遺物等を展示する資料館として開放されている。
写真をクリックすると3倍ズームで撮る「開陽丸」が
表示(600x450)されます。
2013/6/20(12:57)
遊歩道から見る「かもめ島」の南西側海岸。
2013/6/20(12:58)
「かもめ島」で一番狭くなったところ。
この先で、道は二手に分かれ、写真では直進に見える
東側の道を進む。
写真で、コンクリートの舗装が切れているように
見える辺りを右に、西側に進む道があるのだが、
これは、隠れていてこの写真には写らない。
2013/6/20(13:06)
「弁慶の足跡」。
遊歩道西側の崖下の岩盤の2つの穴が足跡に
見えるため、「弁慶の足跡」として伝わるという。
写真をクリックすると2.25倍ズームで撮る
「弁慶の足跡」が表示(600x450)されます。
注:「弁慶の足跡」の部分を白い楕円形の枠で
囲っています。なお、この足跡は潮が満ちると海中に
隠れて見えないという。
2013/6/20(13:08)
遊歩道の最南端の広場。
2013/6/20(13:11)
「キネツカ台場跡」。
遊歩道の最南端にある。
これは、江戸時代後期に設けられた砲台跡で、
明治2年(1869)、江差を占拠していた旧幕府軍は、
攻めてきた新政府軍の軍艦に対し、「キネツカ台場」から
砲撃を行ったとある。
この後、西側の道を北に向け歩く。
2013/6/20(13:13)
「かもめ島」の南西側海岸。
「かもめ島」の海(西)側は、風や波により岩盤が
削られて平らになったという。
2013/6/20(13:18)
「かもめ島」の南西部から見る西側海岸。
写真では不鮮明だが、「鴎島灯台」も見えている。
2013/6/20(13:20)
「かもめ島」で一番狭くなったところ。
2013/6/20(13:23)
「鴎島灯台」と「江差追分節記念碑」。
2013/6/20(13:25)
「江差追分節記念碑」。
民謡「江差追分」が全国的に知られるようになった、
昭和7年(1932)に建てられ、裏面には当時歌われた
歌詞「松前江差の鴎の島は地から生えたか浮島か」と
刻まれる。
写真をクリックすると拡大写真(450x600)が
表示されます。
2013/6/20(13:26)
「鴎島灯台」。
江戸時代後期、「江差」にやってくる「北前船」のために
常燈(灯明台)が設けられたのが始まりで、明治22年
(1889)、木造の灯台となり、昭和26年(1951)、現在の
コンクリート造りの灯台に建て替えられたとある。
写真をクリックすると「鴎島灯台」の案内板が
表示(800x600)されます。
2013/6/20(13:28)
「鴎島灯台」から見る島の南側。
2013/6/20(13:28)
「鴎島灯台」から見る島の北側。
白い建物は、「ステージ」。
7月の「江差かもめ島まつり」では、このステージ上で
「クイズ・ゲーム大会」や「歌謡ショー」等のイベントが
行われるという。
2013/6/20(13:32)
「ステージ」を右に見ながら、更に北へと歩く。
写真右方には、元和元年(1615)に「弁財天社」として
建立され、その後、北前船関係者、商家の信仰を集め、
明治元年(1868)に改称されたという「厳島神社」がある。
2013/6/20(13:35)
「千畳敷」。
島の北西部にあり、風や波により削られた海(西)側の
岩盤の中で、一番広い場所である。
江戸時代中期に描かれた「江差屏風」には、
この「千畳敷」に桜を運んで宴を催している様が
描かれているという。
2013/6/20(13:36)
「テカエシ台場跡」。
江戸時代後期、諸外国の船が日本近海に現れ始め、
島の南に「キネツカ台場」、北に「テカエシ台場」と、
2箇所の砲台を設けたという。
2013/6/20(13:38)
島の北側海岸に降りる。
2013/6/20(13:41)
島の東側を南に歩く。
2013/6/20(13:42)
「北前船の係船跡」。
江差の港が整備されるまでは、「かもめ島」が江差の
港であり、島の周囲に立てた木杭に綱を渡し、北前船を
係船したという。
2013/6/20(13:43,13:44)
「かもめの散歩道」。
以前、海と崖の間にあった遊歩道は、道幅が狭い上に落石も多く危険であったという。
この危険を避けるため、崖から離れた海上に設けられたのが「かもめの散歩道」である。
右の写真をクリックするとカメラの位置を変えて撮る「かもめの散歩道」が表示(600x450)されます。
2013/6/20(13:46)
「ゴロンベェ浜」。
海と崖の間には、「かもめの散歩道」ができる前の
旧道が残るが、道には放置されたままの落石があり、
通行禁止となっている。
写真をクリックすると旧道と放置された落石が
表示(600x450)されます。
2013/6/20(13:48)
「かもめの散歩道」で見る「瓶子岩」。
写真奥には、「開陽丸」のマストが写る。
写真をクリックすると更に近づいて撮る「瓶子岩」が
表示(450x600)されます。
2013/6/20(13:51)
「瓶子岩」と標識。
標柱には「神から瓶子を授かった姥が、中の水を海に
注いだところ、鰊が群れ、江差の人々の生活の糧と
なった。この瓶子が逆さまになり瓶子岩となった」とある。
補足:「瓶子」とは、口縁部が細くすぼまる比較的小型の
壷のことで、徳利の原型という。

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