小滝坑跡

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2012/6/24(7:55,7:57,7:58)
「小滝の里公園」の案内板と石碑。
左(案内板)の写真をクリックすると案内文が拡大表示(800x350)されます。
中央の写真は、「小滝の里碑」。右の写真に写る碑には「小滝応援歌」と「小滝小学校校歌」が刻まれる。
16世紀中には、採掘が始められていたといわれる「足尾銅山」は、明治に入り近代的手法による鉱源開発により、
一時は東洋一の生産量を誇ったが、製錬で発生する亜硫酸ガスと鉱山廃水による公害問題が発生。これを、独自の技術力で解決し、
亜硫酸ガスの完全回収技術は、現在でも世界各国で使用されているという。
また、2005年からは「足尾銅山」の世界遺産登録をめざして活動中という。
本ページで紹介する「小滝坑」は、「本山坑」「通洞坑」と合わせ「足尾銅山」に3つあった坑道の内の1つで、
「通洞坑」と並ぶ産銅量を誇ったという。

2012/6/24(7:59)
「製錬所・選鉱所跡」。
製錬所は、明治30年、選鉱所は、大正9年に
廃止となり、往時のレンガ跡だけが残る。
2012/6/24(8:05)
「旧小滝橋」。
大正15年架設。長さ26.6m。
銅山便道として開削された「小滝路」に、
唯一残された鋼製の橋とある。
2012/6/24(8:06)
「小滝坑口」。
「旧小滝橋」を渡ったところにある。
2012/6/24(8:08)
「旧小滝火薬庫跡」。
「足尾銅山」では、明治14年頃から火薬を
使った採鉱を行っており、この火薬庫は
明治40年頃まで使用されていたとある。
また、周囲の岩には削岩機の調子を確認したり、
練習のために空けられたという穴が今でも残って
いる。
2012/6/24(8:10)
「坑夫浴場跡」近くの廃屋内部。
2012/6/24(8:13)
「坑夫浴場跡」。
大勢が同時に入れる広い浴槽を想像したのだが、
町の銭湯並みの大きさという感じであった。

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