吉見百穴

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2014/4/16(8:34)
「吉見百穴」。
「吉見百穴(よしみひゃくあな)」は、東武鉄道東上本線「東松山駅」から東北東に約1.8km離れた
埼玉県比企郡吉見町にある古墳時代末期(6世紀末~7世紀末)に造られた横穴墓群で、
丘陵や台地の斜面を掘削して造られた横穴は219基を数える。
古い写真を見ると、斜面に多くの人が立つ様子が写るが、現在では3本の遊歩道が整備され、
勝手に斜面に立ち入ること等は許されない。
左の写真をクリックすると「吉見百穴」の案内板(800x600)が表示されます。
右の写真をクリックすると拡大写真(600x450)が表示されます。
2014/4/16(8:38)
「南通路」。
北、中央、南と3本ある遊歩道は、全て頂上に向かう。
本ページでは、入口を入って右の方向にある
「南通路」を上り、左にある「北通路」を下りるコースを
紹介する。
2014/4/16(8:38,8:39,8:39)
「南通路」下段の横穴。
3枚とも同じ穴を撮影しており、中央の写真は、横穴の入口まで近づいて撮影。右の写真は、3倍ズームにて撮影。
写真の穴は、大人では手をついて這うようにしないと入れないほどの小型の横穴である。
現在、入口の穴は塞がれてないが、元は入口に「緑泥片岩」と呼ばれる緑色の石の蓋が立てかけられており、
一度死者を安置した後でも、再び開けて複数の死者を葬る「追葬」が出来るようになっていたという。
2014/4/16(8:40)
「南通路」中段の横穴。
写真をクリックすると拡大写真(600x450)が
表示されます。
2014/4/16(8:40)
大きな横穴の中。
玄室の中は、大人が立って歩けるほどの高さがあり、
左右の1段高くなった「棺座(かんざ)」に死者を
安置したという。
2014/4/16(8:42)
更に上へと登る。
2014/4/16(8:42)
「南通路」上段の横穴。
2014/4/16(8:46)
「山頂の建物」。
売店か食事処であろうが、看板・標識類が
見当たらない。また、この日もらった案内図には、
建物の存在すら書かれていない。
このため、廃業しているようにも思えるのだが、
真偽は未確認である。
2014/4/16(8:46)
往路を戻る。
すぐ下には、「見晴台」があり、南、中央、北通路の
分岐点になっている。
2014/4/16(8:48)
「見晴台」からの景色。
天候に恵まれれば「富士山」を見ることもできるという。
2014/4/16(8:48)
「見晴台」。
2014/4/16(8:50)
「中央通路」上段の横穴。
大型の横穴は、中に入ることができる。
写真をクリックすると拡大写真(600x450)が
表示されます。
2014/4/16(8:50)
「大型横穴」の入口(羡道)。
横穴前の「前庭(ぜんてい)」から、死者を埋葬する
「玄室(げんしつ)」に通ずる通路を「羡道(せんどう)」と
いう。
2014/4/16(8:50)
「大型横穴」の内部。
壁には、心無い見学者が彫ったとみられる跡(傷)が
目立つ。
写真をクリックすると「吉見百穴は生きている」の
案内板(800x600)が表示されます。
2014/4/16(8:51)
「大型横穴」の棺座。
写真をクリックすると「横穴の構造」の
案内板(800x500)が表示されます。
2014/4/16(8:56)
「北側通路」を下る。
2014/4/16(8:58)
「地下軍需工場跡」北側出入口。
「北通路」を下りた所にあった。
この開口部は直径が3m程という。
写真をクリックすると「地下軍需工場跡」の
案内板(600x700)が表示されます。
2014/4/16(8:59,9:00)
「地下軍需工場跡」の中。
内部は、縦と横の洞窟がそれぞれ交差し碁盤の目のようになっているというが、奥は崩落の危険があるため
見学できるのは、出入口付近の一部だけとなっている。
この地下工場は、第2次世界大戦の末期、空襲から逃れるために、中島飛行機工場を地下に移転させるのが
目的であったというから、いわゆる「ゼロ戦(零式艦上戦闘機)」のエンジン部品なども、ここで造られたのでは
ないかと思うのだが、本格的な生産活動に移る前に終戦になったという。
左の写真をクリックすると「軍需工場跡模式図」が表示(600x450)されます。
2014/4/16(9:00)
「地下軍需工場跡」の中。
写真は、北側出入口から入り、南方向を撮影しており、
途中の明るい部分が中央出入口である。
2014/4/16(9:03)
「地下軍需工場跡」中央出入口。
2014/4/16(9:08)
「ヒカリゴケ」。
「ヒカリゴケ」は、「地下軍需工場跡」中央出入口横に
ある「横穴墓」の中に自生するが、横穴の入口は金網の
扉で塞がれている。
写真をクリックすると「吉見百穴ヒカリゴケ発生地」の
案内板(600x400)が表示されます。
2014/4/16(9:05,9:06)
金網の間から撮影する「ヒカリゴケ」。
今まで、複数の場所で「ヒカリゴケ」を見てきたが、光っているのがこれ程はっきりとわかるのは、初めてであった。
どちらもカメラのフラッシュは使用せず、左の写真は、1.25倍ズーム、露光時間1/15秒、F3.5。
右の写真は、2倍ズーム、露光時間1/4秒、F4.2にて撮影。
なお、平成26年(2014)10月17日更新の、吉見町役場のHP「吉見百穴かわら版」によると、
扉に写真撮影用の窓を設け、「ヒカリゴケ」を撮影しやすくしたという。
右の写真をクリックすると拡大写真(600x450)が表示されます。
2014/4/16(9:08)
「中央通路」。
写真をクリックすると拡大写真(600x450)が
表示されます。
2014/4/16(9:04)
「吉見百穴」。
写真ほぼ中央にある縦長の開口部が「地下軍需工場跡」中央出入口。その左、人がしゃがんで見ているのが「ヒカリゴケ」。
中央右には「中央通路」が写る。
2014/4/16(9:10)
「軍需工場跡」南側出入口。
2014/4/16(9:10)
「軍需工場跡」南側出入口から中に入った所で撮影。
2014/4/16(9:32)
「正岡子規句碑」。
「埋蔵文化財センター」の入口近くにあり「正岡子規」が、
昭和24年(1949)にこの地を訪れた時に詠んだ句で、
「神の代は かくやありけん 冬籠」と刻まれる。
2014/4/16(9:33)
「埋蔵文化財センター」の中。
この日は、「大森貝塚」を発掘したことで知られる
アメリカの動物学者「E.S.モース」が、「吉見」を
訪れた際の様子を、まんがで紹介する企画展が
行われていた。
2014/4/16(9:33,9:34)
「埋蔵文化財センター」の展示品。
「埋蔵文化財センター」では、吉見町で発掘された埋蔵文化財等を収蔵展示。
埴輪づくりや勾玉づくり等の体験学習(有料)等も行われている。
2014/4/16(9:35,9:36,9:36)
「埋蔵文化財センター」の展示品。
2014/4/16(9:37)
「埋蔵文化財センター」の展示品。
2014/4/16(9:41)
「五反田河岸の供養塔(道しるべ)」。
「吉見百穴」入口に近い「資料展示館」に展示されて
おり、今から200年ほど前、「地頭方字五反田」の
川岸に建立された供養塔(道標)の複製で、実物は
今でも現地に建つとある。この「五反田」の地名を
地図で探してみたが見つからず。「地頭方」という
地名は、「吉見百穴」から北東約4.2kmの距離にある。
写真をクリックすると「五反田河岸の供養塔(道しるべ)」
の案内板(800x600)が表示されます。
2014/4/16(9:42)
「吉見百穴」に建つ売店。
写真右に、売店「大澤」。写真には写らないが、
この左には売店「たかはし」があり、何れも、
熊谷銘菓の「五家寶」を売る。
この「きな粉」を表面にまぶした「五家寶」は、
子供のころ(数十年前)から知っているのだが、
子供に食べさせるよりも、大人が食する上品な
「お茶請け」として、よく似合うと思う。

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