鹿島神宮

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2011/2/1(14:15)
「大鳥居(二の鳥居)」。
「鹿島神宮」の入口に建つ。
「鹿島神宮」は、日本全国に約600社ある
鹿島神社の総本社で、平安時代に、「神宮」の
称号で呼ばれていたのは、「伊勢神宮」「鹿島
神宮」「香取神宮」の3社だけだったという。
「鹿島神宮」は、漁業関係に縁が深いことから、
「一の鳥居」は、「北浦」湖畔にあるとのこと。

2011/2/1(14:16)
「大鳥居」を入り、「楼門」に向かう。

2011/2/1(14:16)
「大鳥居」を入ったところにある案内図。
図の右方に「大鳥居」がある。「大鳥居」を
入り、左の方向に、参道を進むと、突き当りの
右側に「奥宮」がある。
「大鳥居」から「奥宮」まで、片道約520m。
「奥宮」を右に進むと「要石」まで、
片道約150m。「奥宮」を左に進むと
「御手洗」まで、片道約200mである。
本HPでは、これらを往復する、約1,740m
を歩き撮影した写真を紹介する。

2011/2/1(14:18)
「楼門(国指定重要文化財)」。
「日本三大楼門」の一つで、寛永11年(1634)
水戸初代藩主、徳川頼房公(水戸黄門光圀公の
父親)により、奉納される。
2011/2/1(14:19)
「楼門」の左右に安置される「随神像」。
左右別々に撮った2枚の写真を、1枚の写真に
しています。
2011/2/1(14:20)
「楼門」を入ったところ。
写真左に写るのが「社務所」。
2011/2/1(14:21)
「拝殿(国指定重要文化財)」。
「鹿島神宮」の社殿は、「本殿」「拝殿」「石間
(いしのま)」「幣殿」の4棟からなり、その昔
は、20年ごとに造営が行われていたというが、
現在の社殿は、元和5年(1619)に江戸幕府二代目
将軍の徳川秀忠公により奉納されたという。
2011/2/1(14:24)
「本殿(国指定重要文化財)」。
拝殿は白木作りの簡素な意匠であるが、本殿は
朱塗りで、極彩色鮮やかな意匠になっている。
2011/2/1(14:26)
「仮殿(国指定重要文化財)」。
「本殿」を修理するときなど、一時的に神様を
お遷しするための「社殿」。
2011/2/1(14:28)
「社殿」先の「奥参道」。
「鹿島神宮」のような森を、昔の人は「神々しい
森」といったそうだが、まさにその通りである。
2011/2/1(14:30)
「年代を感じさせる木」。
この木の皮は、素手でも簡単にはがせそうだ。
同様の木は、他にも多く見られた。
2011/2/1(14:31)
「さざれ石(石灰質角礫岩)」。
「さざれ石」は、石灰石が長い年月の間に雨水で
溶解し、その粘着力の強い乳状液が次第に小石を
凝結し、段々と大きくなり、ついには巖となり、
河川の浸食により地表に露出し苔むしたもの。
また、国歌「君が代」は、天皇の御代の弥栄を
「さざれ石」に託して詠んだ歌が元になったと
ある。
2011/2/1(14:32)
「鹿園」。
かつては、多くの鹿が「鹿島神宮」周辺の森に
棲息していたという。
そして、鹿の神霊とされる天迦久神が、天照
大御神の命令を、「鹿島神宮」の御祭神(武甕槌
大神)の所へ伝えにきたことから、鹿島神宮の
お使いは、「鹿」とされている。
2011/2/1(14:35)
「年代を感じさせる木」。
この木は「神々しい森」の「神々しい木」で
あろう。
写真をクリックすると拡大写真が表示されます。
2011/2/1(14:36)
「奥宮(国指定重要文化財)」。
「奥参道」の突き当り右側にある。
慶長10年(1605)に徳川家康により造営。
当初は、本殿として使われたが、元和5年(1619)
二代将軍秀忠による、本宮社殿奉建に伴い場所を
移し、「奥宮」となる。
2011/2/1(14:37)
「奥参道」の突き当りの「案内板」。
先ずは、右に「要石」に向かう。
2011/2/1(14:39)
「奥宮」と「要石」間の「変形5差路」にある
標識。
「奥宮」から50m。「要石」まで、150mと
ある。
注:14時16分の写真では、参道途中にある案内板
の距離を紹介しているが、この標識の距離とは
一致しない。
2011/2/1(14:40)
「要石」に向かう。
2011/2/1(14:43,14:44)
「要石(かなめいし)」。
左の写真で、子砂利の上に、ほんの少し頭を出している石が「要石」である。
右の写真、「鳥居」奥の石柵の中にある。
地震を起こす「大鯰」の頭と尾を、この「要石」が抑えているため、鹿島地方では、大きな地震が
ないといわれ、「地震押えの石」として知られる。
また、見た目は小さいが、地中深く埋まっている巨岩で、水戸藩主「徳川光圀」が七日七晩もの間、
石の周りを掘らせたが、根元には届かなかったとも伝えられている。
左の写真をクリックすると、「要石」の部分を拡大した写真が表示されます。
2011/2/1(14:49)
「奥参道」の突き当りの「案内板」まで戻り、
反対方向の「御手洗」に向かう。
2011/2/1(14:49)
「御手洗」に向かい坂を下る。
この坂、ちょっと長いので、帰りは息が切れ
そうだ。
2011/2/1(14:51)
「御手洗(みたらし)」。
古来、神職並びに参拝者の潔斎の池であり、
大昔は参道が「御手洗」を起点として、この池で
身を清めてから参拝するので「御手洗」の名が
今に残るとある。
2011/2/1(14:53)
「御手洗」の池は、神代より絶えることのない
霊泉で、池の深さは大人が入っても子供が入って
も、乳の高さを越えないと言われている。
池のすぐ側にある「茶屋」では、この湧き水を
利用した「抹茶」や「コーヒー」等の飲み物の
他、湧水で打った「手打ち蕎麦」や元祖「みたら
し焼きだんご」を味わうことができる。
2011/2/1(15:05)
「奥参道」にある案内板。
「鹿島神宮」の境内は、国指定の史跡に指定
され、森が到達する極限の状態の「極相林」は、
人の心を和らげ活動を促す働きがあるとある。
2011/2/1(15:13,15:14)
「大鳥居」近くで見る「タブノ木(左)」と。「椎の木(右)」。
「椎の木」の標識には、樹齢800年位とある。

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