五浦

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2010/9/23(10:33)
「五浦岬公園」。
「五浦岬公園展望台」から見る「六角堂」に
期待し、公園を歩いてみる。

2010/9/23(10:35)
「岡倉天心の歌碑」。
公園の入口にある。歌碑には「泣ひて笑て
また泣ひて 残る涙が命の綱よ 露を命の蟋蟀
沈沈 沈地露淋 沈々地 沈地露淋 沈々淋々
沈地露淋 月なき秋のやるせなや」とある。

2010/9/23(10:38)
「五浦岬公園展望台」。
残念。「崖崩れのため立入禁止」とある。

2010/9/23(10:38)
「五浦海岸の渚と波音」。
「五浦は、五ツの浦が開けていることから、
その名が付けられた」。また、「平成8年に
環境庁より、残したい日本の音風景100選」に
認定されたとある。
2010/9/23(10:39)
「五浦岬公園展望台」の近くで見る「六角堂」。
木の葉の合間からではあるが、写真で見る
「六角堂」の姿を自身の眼で確認することが
できた。
2010/9/23(10:48)
「ホープチャペル五浦」。
使われなくなってから、年月が経っているようで
ある。インターネットで検索すると「元日活
俳優の筑波久子が、一人息子の死をきっかけに、
宗教活動にも力を注ぎ、平成3年五浦観光ホテル
の一角にホープチャペル五浦(教会)を建設、
伝道に努める」とあったが、詳細は不明。
2010/9/23(10:50)
「忠犬ジョンの碑」。
「ホープチャペル五浦」の近くにあった。
2010/9/23(11:15)
「大津岬灯台」。
昭和35年3月設置点灯。
「五浦岬公園」の入口近くにある。
2010/9/23(11:26)
「岡倉天心の墓地」。
この墓は、「岡倉天心の遺志に沿い、大正2年
(1913)東京都の染井霊園から分骨・埋葬された」
とある。
2010/9/23(11:28)
「六角堂」の建つ「茨城大学五浦美術文化研究所」
の中に入る。
写真は、研究所の中にある「天心記念館」。
2010/9/23(11:31)
「岡倉天心像」。
「平櫛田中」作。「天心記念館」の入口を
入ったところにある。
2010/9/23(11:32)
「覆堂」。
法隆寺夢殿を模して設計されたという。
この屋根の下に、「ウォーナー像」がある。
2010/9/23(11:33)
「ウォーナー像」。
「ウォーナー」は、天心の教えを受けた美術史家
で太平洋戦争中、日本の重要文化財を網羅した
「ウォーナー・リスト」をアメリカ政府に提出。
それが奈良、京都などを戦火から救ったといわれ
ている。
2010/9/23(11:35)
「旧天心邸」。
ダイナミックで変化に富んだ五浦の景観に魅了
された天心は、早々と土地を購入。当初は、
鮑料理の割烹「観浦楼」を住居としていたが、
明治38年(1905)天心自らの設計による
「天心邸」と「六角堂」を建築したという。
2010/9/23(11:36)
石碑「亜細亜ハーな里」。
天心のレリーフと「亜細亜ハーな里」の文字が
刻まれており、著書「東洋の理想」の冒頭の言葉
「アジアは一つなり(Asia is one)」である。
2010/9/23(11:39)
「六角堂」。
法隆寺の夢殿を模した(夢殿は八角形)とも
いわれている。一般には「六角堂」という名前で
知られるが、屋根裏から発見された棟札には、
天心自筆の「観瀾亭」の名称が記されていたと
いう。
2010/9/23(11:39)
天心自身の設計により建てられた「六角堂」は、
一見茶室のようだが、「仏堂の特質を持ち、
床の間を備えた芸術鑑賞と対話のための茶室的
空間と考えられている」とのことで、天心は
好んでここにこもり、太平洋の波音を聞きながら
思索にふけったり、和漢の書をひもといたと
いう。
2010/9/23(11:50)
「茨城大学五浦美術文化研究所」の入口。
研究所を出てから撮影。
なお、この日は寄らなかったが、近くには、
「岡倉天心」や「横山大観」をはじめとする
五浦の作家たちの業績を顕彰する「天心記念
五浦美術館」もある。
2010/9/23(11:41)
天心が「六角堂」から観ていたであろう景色。
この日は、小雨模様で雲が低く、太平洋の荒波と見間違えるようであった。

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